牧師からあなたへのメッセージ     



Short Message 28
 
魂の中心から出る「有り難う」
 

   ヨハネによる福音書20章19節を読みますと、イエス様が時の権力者により十字架刑に処せられて死亡し、墓に葬られた時、弟子たちは戸を閉め切ってユダヤ人たちを警戒し、自分たちも捕らえられて、同じ様に殺されるのではないかと不安におののいていたと述べられています。恐怖と不安に加えて、彼らの心には強い自責の念が生じていたでありましょう。ゲッセマネの園においてイエス様が捕らえられた時、彼らは自分たちの敬愛する師を、命を賭けてお守りすることをせず、自分の身の可愛さゆえに、暗闇に乗じて全員逃げ去り、大切な先生を見捨ててしまったからです。それはいまわしく心につきまとい、悩ます暗い記憶であったと思います。

   そんな弟子たちの前に突然、全く想像にしなかったことが起きました。それは普通有り得ない、即ち「有り難き」ことが起きたのです。イエス様が彼らの真ん中にお立ちになり、「安かれ!シャロ−ム!」と言われたからです。びっくりしている弟子たちに両手の釘跡と脇腹の槍傷をお見せになって、まぎれもなく十字架につけられて死に、死から甦ったイエス様ご自身であることをお示しになりました。そしてその時、イエス様は彼らの弱さや自分を裏切った卑怯さなどをお叱りになりませんでした。「安かれ!」という一言の中に、彼らの罪を全て赦し、尚も深く愛しておられるイエス様の心を弟子たちは悟ったのです。

   イエス様のまなざしには深い海よりも深い、慈しみの赦しの愛が溢れていました。20章20節に「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。弟子たちの心の中に、いやもっと深い霊の中心には、再び主とまみえることの出来た大きな喜びがありました。弱い自分たちを咎め裁かず、赦しの愛の中に包み込むイエス様の寛容な心に接して、嬉しさと感謝の思い、ただ有り難く、もったいないという思いが弟子たちに生じました。恵みの中に「有り難きこと」が生じ、恵みの中で、彼らは「有り難うございます」という言葉もなしに、ただ或る者は涙をにじませながら、或る者は涙を流しながら、全身を包む感動の中で、主イエス様を仰いで喜んだのです。
                 

    そこには言葉なくても、魂の中心がイエス様の愛に満たされ、愛が溢れており、ユダヤ人への恐怖も不安も消えて、想像も出来ない「有り難きこと」ゆえに、ただ有り難く、喜んでいる世界、こういう魂の世界が本当の「有り難う」の世界なのだということ、黙してただ手を合わせ、感謝する感動の体験、そのような体験をすると、「有り難う」という言葉が、どのようにして生まれてきたかが分かるという理解は、信州の八ケ岳の高森に、修道院を立て、大自然の中で神を賛美し、神との深い交わりをしておられる押田成人先生から学びました。註@

    押田先生がお書きになった書物、『藍の水』の中で述べているエピソ−ドをご紹介致しましょう。東京下町の貧しい母子家庭のクリスマスのお話です。戦時中で、おかゆばかり食べていたのですが、クリスマスには固いご飯を食べることにしたお母さんは子供たちに言いました。「今晩は固いご飯を食べようね。」子供たちは手をたたいて喜び、飛びはねました。「そうだ、天丼にしよう。」「本当に、本当に天丼食べるの?」と子供たちは大はしゃぎです。「本当だよ」とお母さん。

     その晩、小さな食卓を囲んで子供たちは小さな手を合わせて、心から神様に感謝の祈りを捧げました。ところが、食べようとすると、お母さんの丼の上にはてんぷらが載っていません。「お母さんにはてんぷらがないじゃないか!」と子供たちは口々に言いました。「お母さんはいいんだよ。いいんだからお食べ。」みんな黙ってしまいました。黙って一度取り上げた箸を置きました。しかし、抗議が無駄だと知ると、ポロポロと大粒の涙を流しながら、泣きじゃくりながら天丼を食べました。「お母さん、有り難う」などと言えません。魂の中心から出てくる有り難い思い、感謝の思いはただ涙となって、無言のうちに流れてゆくのです。「有り難う」という言葉はなくても、お母さんは子供たちの心は十分に分かっているのです。押田先生は言われます。「おのずから手を合わせて合掌せざるを得ないようなことを、ありがたい、というのです。」註A
 

    私は朝早く目が覚めると、起きて一人暗い部屋に座ります。黙って主イエス様が私の魂の中心になして下さる業を待ち望むためです。ただ黙して座り続けます。聖書は語っています。「汝ら静まりて我の神たるを知れ」と(詩篇46:10)。自分からしゃべらずに、ただ黙して主からお受けしようと努力します。すばらしい恵みを豊かに与えようと、待っておられるイエス様から、お受けするのです。それが朝の沈黙の時です。お受けするものには、イエス様から与えられる「愛、喜び、平安、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ5章22−23節)」、霊の汚れの清め、神のみ心に従い、神の喜ばれることを行う実行力、そして「イエス様のとりなしの祈りの力にあずかること」などがあります。イエス様は、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」と約束して下さいました。豊かに与えようとなさるゆえに、「求めよ」とおっしゃるのです。
           

    私たちの霊は、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽」(ガラテヤ5章19−21節)などの使徒パウロがいう「肉の働き」によって、汚されています。霊の汚れが清められるためには、イエス様ご自身がなさる清めにあずかる必要があります。私は沈黙の中で祈り、数々の清めにあずかってきました。そして、「自由」ということがどういうものか、どんなに有り難いことかが、分かってきました。
                     

    また、人々のために神の祝福を求めて祈る「とりなしの祈り」とは、実は私の祈りに 先立って祈っておられるイエス様の祈りに、私が参与させられることだと分かってきました。イエス様は私のため、家族一人一人のため、全世界の人々のために、とりなし祈っていて下さいます。そのとりなしの祈りゆえに、私の祈りはイエス様の祈りの中へと導かれてゆき、「とりなしの祈りの力」を受けるのです。その時、私は祈りの中で多くの人々を覚えて祈りを捧げるのですが、それは同時にイエス様と一緒に祈る祈りなのです。その祈りの中で、とりなす人の数が増すほど、私の魂は神の恵みに満たされて充実し、心の平安と希望は強められ、神の愛が私の霊の中心を包み、ただ「有り難い」感謝と喜びの思いが生じるのです。時には強く、時には弱く現れるのですが、私は沈黙の中で、霊の中心から溢れてくる「有り難うございます」という言葉を主に発する体験を、時折り致しております。
 
    そういう意味で祈りは私にとってとても大切な生活の一部になっています。皆さんも、祈りの心が強められ、いつの日か、イエス様から「シャロ−ム」という言葉をお受けして、心に喜びと感謝が溢れる日が来ることを心から祈っています。 
    

註@ 押田成人著『藍の水』(東京・思草庵、1977年。
註A 押田成人著『藍の水』(東京・思草庵、1977年)、130−131頁参照。 

 













 

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