磔(はりつけ)覚悟で嘆願した五人の庄屋物語     



Message 9             斎藤剛毅

今日は「出会いの豊かさ」という題で説教します。私の73年間の人生を振り返ってみますと、色々な人との出会いがありました。その出会いが私の人生を豊かなものとしてくれたと思っています。
 私にとって最も大切で、決定的な意味を持つ出会いはイエス・キリストと父なる神様との出会いであったことは、既に説教で何回も語りましたので省きます。今日は日常生活の中でも人生を豊かにする人との出会いが有ることを、この度ヘルニア手術の入院期間中(2009年9月30日―10月9日)に教えられましたのでお話します。

 2週間の入院期間中に、暗い通路側のベットから運よく窓際の明るいベットへと移ることが出来たのですが、隣に胃がんの手術で入院していた本松泰介という76歳の老人と話をする機会がありました。本松さんは村の村長さん的風格のある方で、今年の8月に新潮社から出版された、福岡県出身の作家、箒木逢生さんの作品、『水神』(上下巻)を読んでおられて、術後で読めないので先に読んではと、親切に奨めて下さったので、手術が終わって閑な時間がありました私は三日間で読了することが出来ました。作者は1947年生れで、東大仏文卒業後、TBSに勤務し、九大医学部に入り直して、現在精神科の医師であります。仕事の傍ら精力的に小説を書いて、数々の賞を受賞しておられる方です。

箒木逢生はペンネームですが、このノンフィクション的小説に登場する五人の庄屋さんの一人が隣のベットに横たわっている本松さんのご先祖様であることが分かり、興味が倍増して読み進めました。見舞いに訪れた息子さんに小説の舞台となった地域を図解していただき、かつて私は原鶴温泉に行ったこともあり、また吉井町周辺に出来た道の駅で妻と共に耳納味噌を買うことが度々ありましたので、物語がとても身近に感じたのです。

 今から335年前(江戸時代の寛文四年)のことですが、筑後川と耳納山から流れ出る巨(こ)瀬川(せがわ)の間にある江(こう)南原(なんばる)という農村地域に、筑後川から水を引き、豊かな農業地帯にするために堰を造り、北と南に二本の東西に流れる水路を造るという大事業のために命と財産全ての犠牲すら惜しまなかった五人の庄屋さんの物語です。江南原は現在の福岡県浮羽市吉井町の地域です。原鶴温泉より耳納山側の地域を思い描いて下さい。
 江南原は筑後川よりも高い地形なので取水の恩恵にありつけず耳納山からの巨瀬川にまで出かけて、二人の男が桶を川に投げ入れては、オイッサ、エットサーと掛け声を合わせながら川水を汲みあげて、江南原に通じる溝に流し入れる作業を一日に何度も行い、それが延々と続くのです。しかも、大雨が降ると巨瀬川が氾濫し、農作物に被害を与えます。もっと恐ろしいのは、あの当時「暴れ川」と言われた筑後川が大雨の為に土手が切れて洪水となると田植の苗が流され、米の種もみが無いときは庄屋さんを通じて他の郡から高い利子で借りねばならないのです。やっと米を収穫しても、利子をつけて借りた種もみ返し、年貢米を納めると自分の取り分が残らず、飢えの中で最悪の場合、盗人になったり、捨て子、間引き、姥捨てが行われ、最後は村から逃げ出すという悲劇が生じていたのです。

 小説『水神』の主人公の一人、高田村の山下助左衛門は庄屋になって30年、その間に村人に生じた悲しい出来事を見てきました。そして、父親が遺言として語った「筑後川を味方に付けよ」という言葉を心に刻み付けます。そして、何とかして筑後川から水を引く計画を実現したいとと考え、清宗村の本松平右衛門に相談して、賛意を取り付けると、どこに堰を造るか、堰から分水嶺地点までどのような水路を引くか、分水嶺から北と南側に二本の東西に流れる水路を造る際に、今までに存在する畑を潤す溝とどのように繋げるか等、綿密な調査を行い、それを図面に正確に描き、それが出来上がると他の三人の庄屋さんの賛意と協力の約束を得るのです。しかも、彼らの決意は計画実現のために財産を全て擲って、犠牲を覚悟で50年後、百年後の村の繁栄と子孫の幸せの為に力を合わせるという固い決意だったのです。そして、「大石長野水道造成嘆願書」を詳細な計画図面と共に久留米有馬藩主頼利公に奉行所を通じて提出するのです。

 すると、それを聞いた他の村の11人の庄屋たちが、「我々に相談もなしに、頭越しに嘆願書を提出するとはけしからぬ」と反対の嘆願書を提出する事態が生じます。山下助左衛門や本松平右衛門たちは他の村の庄屋たちに相談すれば何年かかっても意見がまとまらないことを十分に知っていたのです。そこで、普請奉行は5人の庄屋を呼び出し、この計画がどのような利益を藩にもたらすか、計画の失敗に対して責任を取る覚悟が出来ているか等を問いただします。その後に、郡の奉行所から5人の庄屋が呼び出され、もしこの計画が失敗したら五庄屋全員が磔の刑に処せられること、工事に必要な村人たちの労働代金、その他必要な諸経費は全て五人の庄屋が支出することを固く誓う内容の「誓詞血判書」を書かされます。

 その結果、藩主の認可が下りて大々的な測量が普請奉行所によって行われ、335年前の寛文四年、農作業の閑な農閑期に、1月の11日に着工して3月中旬に工事終了という計画で、筑後川からの江南原に水を引く大工事が始まるのです。15歳以上の男女で庄屋が免除を認めた者以外は全員参加協力する形で行われました。起工式の費用だけは藩が主出するが、村人たちの労賃、工事に必要な資材の調達費、食事賄い費用の一切は五庄屋が責任を持つので概算して約60日間で250両が必要となります。一庄屋が50両づつ郡役場に納めよという御達しがなされました。これは大変な経済負担を意味します。蔵に貯えていたもの全て現金に替えて庄屋たちは50両を調達したのです。

 工事中、皆から良く見える高台には五本の磔用の十字架が立てられました。失敗したら五人の庄屋たちが磔になるぞという御上からの無言の圧力がかかる中で工事が進められたのです。村人たちはあそこの高台から五人の庄屋さんたちが我々の安全を見守っていてくれると積極的に理解して、不安を乗り越え、働きました。大石堰が造られ、堰の水門から流れ下る筑後川の水は、今の原鶴温泉の南側に位置する角間の分水嶺で分かれて、北水路と南水路に流れ下り、江南原を潤す工事が進みました。水路の水深は三間半、幅65間を掘り進めて、総計三千坪に石を敷き詰めてゆくことは村人全員の協力無しには実現できないことでした。
 
 さて、筑後川からの取水が行われる際に、大事には至らなかったものの工事に不祥事が生じました。その責任が問われたら、五庄屋の磔は免れないであろうという不安が村人たちに襲いました。その時、五人の庄屋さんたちの犠牲をいとわぬ働きを暖かく見守り、時には反対者たちの暴力から発起人・高田村の山下助左衛門の家族の命を守った久留米藩士の菊竹源三衛門が、久留米有馬藩主頼利公に五庄屋の助命嘆願書を書いて、切腹自殺する事件が起きました。その嘆願書には、五人の庄屋が身命を賭して「水道造成嘆願書」を作成したこと、藩主からの認可と工事への参加命令が下ると心を合わせて働いている百姓たちは藩の宝であること、工事過程で生じた不祥事を五庄屋の責任として、磔刑をもって処刑するならば、それは藩の末代に至るまでの恥となること、わが命をもって五庄屋の助命を願い奉りますと書かれていたのです。この嘆願書により五庄屋は処刑されること無く命は守られたのです。

 村人と子孫のために50年後、100年後の繁栄と幸福の貯めに私財を投げ打って大きな工事の実現を目指した五庄屋が、思いがけず生じた不祥事の責任を負わされそうになった時、その責任をわが身に引き受けて命を絶った菊竹源三衛門の死は、イエス・キリストが十字架にかかって人類の罪を負い、罪の赦しを父なる神に祈願しつつ死んでゆかれた犠牲的愛の精神に通じるものがあります。

また、ローマ人への手紙12章8−9節にある「寄付するものは惜しみなく寄付し、慈善をする者は快く慈善すべきである。愛には偽りがあってはならない。」(口語訳)という使徒パウロの教えが335年前の筑後川流域の江南原の五庄屋によって実践されていたのです。その動機はいずれも愛でありました。五庄屋さんの心はローマ人への手紙12章13節にある「貧しい聖徒を助けなさい」の教えにも繋がります。私は箒木逢生さんが良い本を書いてくださったと思います。

この『水神』上下巻を読むことが出来たことが、入院の最大の収穫となり、神様は説教の内容まで整えてくださいました。主に感謝すると共に、私の入院中に背後の祈りを捧げてくださった皆様に感謝して、今日の説教を終わります。
註 五庄屋物語は箒(ははき)木(ぎ)逢(ほう)生(せい)著、『水神(すいじん)』(上下巻、新潮社、2009年8月)に基づく。

2009年11月14日の西日本新聞に「五庄屋伝説に直筆資料」と題する次のような記事が載りました。“江戸初期、生葉郡(現在のうきは市)の庄屋5人が、農民を飢饉から救うため領主に直訴し、筑後川から大石長野水道を通したという伝説を裏付ける古文書が、庄屋の一人、山下助左衛門の子孫の歯科医山下尚之さん(53)宅(久留米市)に保存されていたことが分かった。磔覚悟で嘆願したとされる庄屋の偉業は、地元小学校の教材にも載せられている。15日、うきは市の江南小で行われるイベントで一般公開される。三谷校長は「当時の思いがひしひしと伝わる貴重な資料。多くの人に見てほしい」と話している。
 古文書の内容は、助左衛門が工事を願い出てから完成するまでの自筆記録や寛文3年9月24日付の5人の庄屋連署による郡奉行あて工事見積書など。「工事に失敗した場合は厳しく罰してみせしめにしてください」と覚悟を述べた部分や、同年12月に事業開始が決定し、翌年1月に工事が始まったとの記述もあるという。“













 

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