信じて待ち望んだシメオン老人     



Christmas Message 28             斎藤剛毅

 ルカによる福音書はシメオンという名の老人を語ります。彼はこの箇所にだけ出てくる人物で、職業も家系も分かりません。彼が老人であったということは2章29節に「今こそ、この僕を安らかに去らせてくださいます」と語った言葉から分かります。彼は文語訳聖書では「義にして敬虔な人」、口語訳聖書では「正しい信仰深い人」、新共同訳聖書では「正しい人で信仰が厚い人」と述べられています。その当時、善良で敬虔な信仰深い人は大勢いたでありましょう。

 しかし、この老人に関して、私たちの注意を引く二つのことがあります。それは第一に、彼が救い主に出会うことを待ち続け、決してその待ち望みを捨てなかったということ、第二に、その待ち望みが成就して喜びに満たされたということです。

 1944年に反ナチス運動で捕えられ、ダハウの収容所に過ごしたドイツ告白教会のマルチン・ニーメラー牧師は、収容所からの開放が絶望と思われる状況の中で、ルカによる福音書に出てくるシメオン老人の信仰に支えられて希望を捨てなかったことが、獄中の同志に語った説教「シメオンの賛歌」の中で語られています。註@ キリスト誕生という聖書の記事を、色々な時代に、色々な人々が、異なる環境の中で読み、暗黒に覆われた魂に光を得たという証言が多く残されています。私たちは、この老人の物語から何を福音の光として魂に聞きとることが出来るのでしょうか?

 シメオン老人の待ち望みは10年、20年30年と続いたのかもしれません。箴言13章12節に「望みを得ることが長引くときは、心を悩ます」とありますように、シメオン老人は救い主と出合う希望が中々実現しない時、心悩み、落胆することがあったかもしれません。しかし、希望は衰えなかったのです。彼に待ち望み続ける力を与えたものは何だったのでしょうか?それは「主の遣わす救い主に会うまでは死ぬことがないと、聖霊の示しをうけていた」(2章26節)とルカが語る神の約束があったからなのです。父なる神様が約束してくださったことは必ず実現するのです。この約束の成就を、私自身も体験しましたので、お証し致しましょう。

 私は1963年から69年までの6年間、兵庫県明石市に派遣されて、開拓伝道に従事しました。今と違って、アメリカ外国伝道局から送られてくる多額の献金により、日本バプテスト連盟から経済支援を受けて、250坪の土地を購入し、会堂、牧師館も建てることが出来ました。幼稚園を開設して地域伝道に取り組み、伝道開始4年間で教会組織を実現する恵みにあずかりました。私は5年目にアメリカ留学試験を受けて合格し、その準備に取り掛かった時、西南学院大学神学部の助教授、小林昌明先生が40歳の若さで亡くなられたのです。教授会が開かれ、小林先生が教えておられた教会史とバプテスト史をアメリカの神学校で専攻して帰り、神学部で教える道を開くようにと、神学部長、尾崎主一教授から説得されて、サザン・バプテスト神学校に
入学し、修士課程を終える頃、神学部は大学紛争の渦に巻き込まれており、その時点で私が帰国しても、専攻した科目を教える状況では無いことが知らされました。

 私は粘り強く祈って、私はどうしたらよいのかを主なる神に尋ねたのです。その時、神様に示されたことは、第一に博士課程に進む道が拓かれること、第二に、博士課程3年間の経済面が保障されること、第三に帰国後のことは委ねよ、ということでした。これは私の未来に関する神の約束でした。修士論文を書き上げた時、指導教授から博士課程に進むことを勧められ、試験に合格すると3年間の奨学金が約束されました。妻が幼稚園で働く道も拓かれ、経済生活も保証され、博士論文を書き上げ卒業すると、神学部から車で15分の位置にある長住バプテスト教会の牧師に招聘されて、伝道・牧会に励みながら、神学部講師として12年間、教会史とバプテスト史を教えることが現実となり、父なる神様に示された三つの約束は全て成就したのです。

約束された事柄が一つ一つ実現してゆく中で父なる神は、決して約束を破ることのない真実なお方であることを私は学んだのです。帰国前に福岡以外の二つの教会から招聘があり、迷ったこともありましたが、結果的には神様は最善の道に導いてくださいました。

 シメオン老人の話に戻りますが、彼は聖霊の示しをうけて以来、年々望みを抱いて待ちました。彼の周囲の人々が救い主の到来を信じて待つことを止めてしまっても、彼は待ち望み続けました。歳月は過ぎ去り、死が近づきつつあることを感じながらも、彼の信仰は衰えることは無かったのです。聖霊の示しを信じたからです。そして遂に待ち望んでいた救い主と出会う恵みが与えられる時が来たのです。

 「この人が御霊に感じて、宮に入った。すると、律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れて入って来た」とルカは語ります。内的な衝動に駆られるようにしてシメオン老人は近づき、幼な子を腕に抱いて、神を褒め称えて言いました。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉とおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民の前にお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。(29−32節)シメオン老人は聖霊の働きにより、霊の目が開かれ、成長して救い主としての働きをする未来の姿を幼な子に洞察して、御子を遣わして下さった神を心から賛美し、喜んだのです。この喜びは長く待ち望んだ者のみが知る大きな喜びです。アブラハムは年老いた妻、サラが子供を生むと告げられて20年も待ちました。成就する年月が長かっただけに、わが子イサクの誕生は大きな喜びでした。

シメオン老人が幼な子を腕に抱いた時点では、世の人々は幼な子が救い主と信じていないのですが、彼は救い主と信じたのです。そして、腕の中の幼な子を「異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光」と呼んだのです。ルカは「父と母とは幼な子について、このように語られたことを、不思議に思った」(34節)と書いています。その後で、シメオン老人は母マリアに次のように語りました。「ごらんなさい、この幼な子はイスラエルの多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりするために、また反対を受ける印として、定められています。―そして、あなた自身も剣で胸を刺し貫かれるでしょう。―それは多くの人の心にある思いが、現われるようになるためです」(34−35節)。これは明らかに未来預言の言葉です。

この言葉を読む時に、私たちはキリストの生涯が、飼い葉桶に始まり十字架に終ることを改めて思うのです。そして、この世のクリスマスは、楽しく歌い、飲み、踊り、商業合戦に巧みに利用されてプレゼントを交換したり、イルミネーションの艶やかな輝きに心奪われ、一時的にこの世の辛さを忘れて心を浮き立たせて過ごす時という考えを定着させ、人々を教会から遠ざけさせようとしている反キリストの力を感じます。キリストの生涯の始めも、終りに至る年月も、その最後も苦難に満ちていたことを、すなわち苦難の僕としての主イエス・キリストを、私たちは聖書から学びます。

人口調査の勅令によりヨセフと身重のマリアは故郷に帰っても、婚前妊娠した夫婦として親族から快く迎えられなかったゆえに宿を探したとも想像されます。マタイによる福音書は、幼な子イエス様はヘロデ王に命狙われて、両親と共にエジプトに逃れた難民であったことを語ります。ガリラヤから始まる福音宣教により、大祭司の密偵がいつも目を光らせて言動を逐次報告し、祭司族、律法学者たちは日が経つにつれてイエス様を危険人物とみなし、自分を神の子と自称する神の冒涜者というレッテルを貼り、最後には捕えて、死罪に価しないにもかかわらず罪をでっち上げて十字架に付けて殺してしまう暴挙に出たのです。しかし、神の霊の力に導かれた人々はイエス様の中にキリストを見たのです。

シメオン老人が預言しましたように、母マリアは剣で胸を刺し貫かれるような痛みを味わいました。父なる神は御子を世に遣わし、真理の言葉の数々によって世の虚偽を明らかにし、イスラエルの民に代表される人類の犯す最も恐ろしい犯罪を暴露し、その罪を御子の十字架において裁かれたのです。即ち、イエス・キリストは神に完全に見捨てられ、絶望する地獄の苦しみを味わい、人類に代わって贖罪の業を成し遂げられたのです。そして、復活されて天上にお帰りになり、十字架の贖罪を信じる者に聖霊を注ぎ、罪の赦しの確信を与え、死んで復活し、神の国で永遠の命に生きる約束をされました。その恵みは、人の生まれた家系、家柄、この世で得た地位や財産や名誉などに関係なく、ただ信じた人々に与えられる恵みなのです。

信仰に導きいれられた私たちは、シメオン老人とは異なる聖霊の示しを受けています。それはイエス様が語られた言葉、「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)のように、この世では様々な信仰の試練、、艱難、苦難を体験しながら、神の恵みに守られながら生きてゆくということです。信仰が鍛えられ、強められるためには、数々の苦しみの炉と通らねばなりません。自分が神の前に如何に罪深い者であり、その赦しのためにキリストの十字架の死が必用であったことを心から信じ、十字架を通して現われる神の恵みを受けるために悔い改めが必用だと悟るための訓練なのです。そして、艱難、苦難を通して忍耐力が養われ、神が最善に導いて下さるという希望が強められ、神がの愛を受けて人を愛し赦し、神の愛を分かち合うようになるのです。

 私たちは、シメオン老人と似ている聖霊の示しも受けています。その示しとは信仰の旅路をゴールまで歩き抜き、死んで神の国に復活する時、私たちははっきりと霊の目でイエス様を見て、大きな喜びに包まれるということです。そして、主の恵みの光溢れる御国では、最早死も無く、悲しみ痛みも無い、感謝と賛美と神の栄光をほめたたえる御国に生きるということです。これは神の約束です。聖霊によって示されている神の約束です。シメオン老人は神に遣わされる救い主に出会うまで死ぬことはないという聖霊の示しを受けました。私たちは幸いにも既に救い主に出会いました。イエス・キリストを救い主と信じて、数え切れないほどの恵みを与えられて来ました。私たちに残されていることは、死に至るまで主イエス様に忠実に生き抜くことです。

註@ マルティン・ニーメラー著『されど神の言葉は繋がれたるにあらず』(国谷純一郎訳、新教出版社、1962年)、23−37頁参照。













 

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