不条理な病気と死に直面して     



Message 26             斎藤剛毅

私と妻は2000年2月3日に、和白バプテスト教会で行われた岩切健先生の葬儀に出席しました。私の隣の席には神学校の大先輩でありました北原末男先生が座っておられ、悲しみを分かち合いました。岩切先生は22年間若松バプテスト教会での伝道牧会の後、川崎の百合ヶ丘教会で八年間伝道し、それから大分バプテスト教会に1985年に招聘されて赴任後、55才の時に若年性アルツハイマー病が発病したことを知らされ、87年に牧師を辞任して、娘の野口恵さんの住む福岡に転居されました。そして、闘病15年の後、2月1日に70歳でお亡くなりになったのです。

私が1990年の秋から94年春までの3年半、福間教会で臨時牧師をしておりました時、次第に病状が悪化してゆく中で介護に疲れ、苦悩される裕子夫人と沈黙を守られる岩切先生を自宅まで車でお送りし、時折り居間に通されて共に祈り、悲しみを分ち合いました。苦痛と将来への不安は裕子夫人だけでなく岩切先生にもあったのです。音楽に優れた才能を発揮された岩切先生は五線紙の上に次のようなうめきを書いておられました。

  僕にはメロディーがない。和音がない。響鳴がない。
  頭の中にいろんな音が秩序を失って騒音をたてる。
  メロディーが欲しい。愛のハーモニーが欲しい。
  この音に響鳴するものはもう僕から去ってしまったのか。
  力がなくなってしまった僕はもう再び立ち上られないのか。
  帰って来てくれ 僕の心よ。
  全ての思いの源よ。再び帰って来てくれ。
  あゝ美しい心の高鳴りはもう永遠に与えられないのだろうか。
  いろんなメロディーがごちゃごちゃになって気が狂いそうだ。
  苦しい。頭が痛い。

 この詩にも似た文章が葬儀の式次第に載せられていました。それを読んだ時、私は「十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:8)イエス様の十字架の苦悩を心に描きました。聖書を読みますと、愛によって固く結ばれていたイエス様と弟子たちが描かれています。この美しい師弟愛はユダの裏切りと他の十一人の弟子たちの逃亡によって崩れてしまいます。愛の響鳴とハーモニーは去ってしまったのです。でっち上げの不正の裁判の後、ゴルゴダまで十字架を負い、力なく憔悴しきったイエス様は十字架の上で、姿を隠された神に向かって「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか!」と叫ばれます。両手両足を貫く釘が惹き起こす焼けるような痛み、狂わんばかりの喉の渇き。イエス様は絶望的闇の中に入られたのです。人生に生じる虚無、意味がないと思われること、やりきれなさ、悲しみの極みを十字架上で負われたのです。

ヘブル人への手紙5章7−9節に次のような記述があります。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自身を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまな苦しみによって従順を学んだのである。」

私は神の前に罪赦されて義とされた人々、牧師、宣教師、信徒に中に時々十字架につけられて苦しむイエス様の姿に重ね合わされるような苦痛を味われた人々を見てきました。ぜんそくの発作にたびたび苦しみ、40才の若さで天に召された西南学院大学神学部の小林昌明先生の姿が浮かびます。60代からパーキンソン病を患い、のどを切開して苦痛に耐えておられた松村秀一牧師を病院に訪ねてお祈りしたことを思い起こします。難病に犯されて長い間入院生活を送っておられた松村あき子夫人と戸上公子夫人。

なぜ神はこのように人間の目にはむごいと思われることを神に愛された人々に許されるのか。その謎・ミステリーを解く鍵は、イエス様の復活の事実にあります。この地上での苦しみが大きければ大きいほど、信仰をもってその苦しみに耐え抜いた人々に与えられる復活と、天上でイエス様と共にある喜びは、全ての謎に光を与えるはずです。天に帰った時、イエス様は私たち一人一人に、なぜこの地上で患難と苦難の中にとじ込められたのか、その理由をはっきりと示して下さると思います。私たちは人間の知恵をはるかに超えた想像を絶する神の愛のはからいであったことを悟るはずです。その時、すでに天に召された人々と共に「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するでしょう。

イエス様の十字架上の哀れにも無惨な、神に呪われたのではと疑いたくなる姿を思う時、私たちは人々を、一時的な姿、かたちで判断してはならないことを教えられます。この世の地位、名誉、財産などの有る無しによって判断してはならないことを悟らされます。

イエス様の見ておられるのは私たちの心です。私たちはイエス様に倣って心を低くし、謙遜になり、徹底して愛をもって人に仕える心を強め、養ってゆくことが期待されています。私たち傲慢な人間は簡単には謙遜になれません。長い間かかって聖書を通してイエス様の生き方、考えを学び、教会や社会で自己犠牲的奉仕を積み重ねながら、人の足を洗うということは、どういうことかを学んでゆくのです。

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリストにあって抱いているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」 (ピリピ人への手紙2章4〜5節)という使徒パウロの考えが、自分のものとなるように祈って、イエス様から愛とへりくだりの力を受けましょう。                   













 

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