平和をつくり出す人たち     



Message 23             斎藤剛毅

『罪と罰』における十字架の力(コリント人への第一の手紙1章18節)

使徒パウロは、「十字架の言は、滅びゆく者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには、神の力である。」(コリント第一、1章18節)と述べました。今日は十字架の言が救いにあずかる私たちには神の力であるという事実を学びたいと思います。そのためにドストエフスキーの『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフに登場してもらいます。

ロシアの文豪、ドストエフスキーは共産主義革命以前の作家です。彼は人間の罪深い悪臭を放つどろどろした暗黒の魂を描き、また同時に泥の中から茎を伸し、水面に花を咲かせる蓮のような、闇に輝く清らかな魂をも描くことの出来る作家でした。それは、彼がキリストの十字架の光によってあらわにされた人間の罪の深刻さを、深く洞察したからであり、またキリストの復活において罪に対する神の勝利とそれに基づく希望を、人類的規模においてはきりと見ていたからでした。

さて、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフという青年は、屋根裏の小さな部屋に住んでいます。彼は母親の過保護的愛によって育てられた正義感の強い、しかし、精神的に未熟で、病的なところのある若者でした。彼はたこ壺のような孤独な世界の中で一人考えます。「この俺は高利貸しの悪徳婆さんに軽蔑のまなざしで見つめられ、高い金利で苦しめられている。あのような社会のダニのような人間は殺してしまったほうが良いのではないか。ナポレオン将軍は戦争で、何千という敵を殺しても、罪を問われることなく、多く殺すほど栄誉に輝く。俺は一人の敵を地上から消すだけなのだ。」彼の精神状態は明らかに病的です。しかし、何と悲しい観念的結論でありましょう。

 かつて日本にもこれと似た、悲しくも社会から厳しく糾弾された青年や中高生が現れました。社会正義の名のもとに、悪徳企業の粉砕を叫んで、時限爆弾を三菱ビルの前に仕掛けて、なんら罪もない通行人を死傷に巻き込んだ青年「狼」グループの犯行、警察官は悪い体制を守る番犬だと決めつけ、派出所を襲う過激派学生グループ。世間の目には隠されている大企業の悪徳の数々を知り、純粋な学生の正義感によりどうしても赦せないと思い、暴挙に走る彼らの思いにも同情は抱きますが、宿のないホームレスの老人に暴力を加える高校生や、親しい仲間を仲間はずれにして「許せない。憎い。死んでしまえ!」と落書きして陰湿ないじめを繰り返し、自殺に追い込んだ中学生たちの心も病んでいます。

ラスコーリニコフは悪への制裁を単独でしようとします。彼の魂は悪魔の試みにさらされており、彼の良心はその誘惑から逃れたいと願いつつ、ペテルブルグの裏町をうろつき回り、ベンチに座ると「俺は本当にそれをやれるのか。実際に出来るのだろうか。」と考え、熱病のような戦慄と悪寒さえ感じながら、ベンチから立ち上がり、駆けるように歩き始めて物思いに沈み、時々ぎくっとしては頭を上げ、あたりを見渡し、今何を考えどこを通って来たのかも忘れてしまうような精神状態でした。彼は悪魔に憑かれた人のように体をもてあまし、さ迷い続けるのです。ラスコーリニコフは神を信じていますが、イエス・キリストの十字架の意味が分かっていなかったのです。彼にあるのは正義の律法だけなのです。

回心前のパウロは、クリスチャン抹殺はイスラエル社会の正義と秩序を守るために必要であるという大義名分 を掲げて、クリスチャン迫害を実行しました。パウロは後になって、過去の行動は「律法の呪い」に取り憑かれた行動であったと述べています。その時パウロはキリストの十字架の意味が分からず、主イエスの十字架の死が人類の罪をあがなうための贖罪の死であると述べるクリスチャンの証言は誠に愚かな発言としか受け止められなかったのです。

 ラスコーリニコフも神に祈りを捧げます。しかし、その心には十字架のキリストが不在なのです。どんな悪人でも、どんな罪深い人でも、どんなに嫌いで憎いと思う人でも、その人のめに十字架上で罪の赦しを祈られたキリストの愛、極悪非道の罪人でもキリストに愛されている人だということが見えないために、容赦ない批判を浴びせかけ、排撃しようとする律法による裁きの心が存在するのです。十字架による救いの教えが理解されていないのです。それゆえに正義の律法を振り回し、人を殺害することを正当化しようとします。日本には信心深い人が大勢います。神仏を信じて祈りを捧げる人は大勢います。しかし同時に、大勢の人は裁きの思いに捕らわれて、好意的でないと思う人を情け容赦なく裁き、批判攻撃するのです。
                          
 ラスコーリニコフはついに老婆を殺してしまいます。他人の命を蝕む悪女を抹殺することは社会への奉仕と考え、しらみをつぶすようなつもりで殺したのですが、自分の前に血まみれになって倒れているのは、虫けらではなく、紛れもなく一人の人間でした。そして、彼女を殺したのは、ナポレオンでも非凡な英雄でもないのです。魂の病んでいる一人の罪人でありました。「人間が人間を殺す権利があるのか?」という良心の呵責が彼を不安に陥れ始めます。不安の暗闇の中での怯え。それは罪を犯した者の体験する罪への報酬、すなわち罰なのです。彼は警察の捜索追求を逃れるために売春婦ソーニャのもとで不安を癒そうとします。なぜならソーニャには罪の欲情に体を汚されながら、ひたすらに十字架のキリストにすがってゆく信仰があるからなのです。
              
 ラスコーリニコフはソーニャに尋ねます。「ラザロの復活はどこ? ソーニャ、捜してくれないか?」そう言って一人で聖書をめくる彼に、「そんなところじゃありませんわ。第四福音書です。」「捜し出して読んで聞かせておくれ。さあ、読んでおくれ!」「あなたに読んであげたって、仕様がないじゃありませんか。だって、あなたは信者じゃないんでしょう?」神様を信じていても、十字架のあがないを自分のものとして理解していない人は、聖書の本当の有り難さが分からない未信者と同じだと、ドストエフスキーはソーニャを通して言っているようです。ラスコーリニコフの必死の願いに応えてソーニャは聖書を読み始めます。「イエスは彼に言われた。『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者はいつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。』マルタはイエスに言った。『主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト。神の御子であると信じています。』」
       
 この後、二人の間に五分間の沈黙が訪れます。永遠の命の言葉を宿す聖書の使信に耳を傾けた殺人者とキリストの憐みにひたすらにすがって生きている売春婦。この沈黙の中にこそ、神の憐みの霊が働くのです。聖霊の力によりラスコーリニコフはソーニャの中におられるイエス様をかいま見るのです。人の罪のよって汚され、その罪を我が身に受け、しかも自分を傷つける人を悲しい思いで包んでゆくソーニャ、そんな彼女の姿の中に、人の罪によって十字架につけられ、その痛みの中で尚も相手を赦し、愛によって包んでゆくイエス・キリストの愛がだぶって見えてきたのです。ラスコーリニコフはソーニャに言います。「ぼくは分かった。お前は僕にとって必要なんだ。だから、僕はお前のところへやって来るんだ!」 

 私たちは人を愛せずに苦しみます。人を受け入れることができず、また人を赦すことができずに苦しみます。人が嫌いになり、憎しみが心に宿り苦しみます。それを表面に出して見せないけれども、心で人を恨み、殴りつけ、蹴飛ばし、殺しさえするのです。そんな自分に愛想が尽き、憂鬱になり、悲しんでいる時、十字架についてお亡くなりになり、死より甦って今も生きておられるキリストは、最も近く私たちの側におられるのです。しかし、悲しきかな!人にはそれが見えません。その時、ソーニャのように十字架のキリストを示し、神の赦しを語ることができる人は幸いです。
               
 ソーニャの優しさの前で、ラスコーリニコフは自分の犯した殺人の罪を告白し、「自分はどうしたら良いか、言ってくれ!」とソーニャに乞うのです。ソーニャは答えます。「お立ちなさい!すぐ、今すぐ行って四つ辻にお立ちなさい。そして身をかがめて、まずあなたが汚した大地に接吻しなさい。それから、世界中四方八方へ頭を下げてはっきりと聞こえるように大きな声で『私は人を殺した!』とおっしゃい。そうすれば、神様があなたに命を授けて下さいます。行きますか?行きますか?』ソーニャのいう大地への接吻は人間が生み出す汚物を受け入れ浄化してゆく大地への接吻、それは贖罪の十字架への感謝の接吻を意味するのです。
                             
 真の罪の赦しは十字架のキリストにおいてなされた贖罪、罪のあがないを信じて、神の前に罪を告白し、以後罪を犯さない努力を重ねることを約束する以外にはないのです。良心の呵責が癒される場所は人間の良心の創造者である神御自身なのです。良心は神が人に植えつけられた神の心なのです。今やラスコーリニコフにとって十字架の言葉は神の力として光を放ち始めます。彼がすべきことは実行でした。ソーニャのくれた十字架を胸にさげて、広場に出かけてゆきます。そこで彼はソーニャの言葉を思い起こします。「その言葉を思い出すと、彼は全身をわなわなと震わせ始めた。この日頃、特にこの4、5時間の出口の無いような悩ましさと不安は、すっかり彼を圧倒し尽くしたのだ。彼はこの新しい充実した渾然たる感情の可能性へと飛び込んで行った。それは一種の発作のように突如として彼を襲い、彼の心の中で一つの火花となして燃え上がり、たちまち火炎のごとく彼の全体を掴んだ。その刹那、彼の内部にある一切が解きほぐれて、涙がはらはらとほとばしり出た。彼は立っていたまま、その場に動かず、そして地面へどっと倒れた。・・彼は広場の真ん中に膝をついて、土の面に頭をかがめ、歓喜と幸福感を感じながら、その汚い土に接吻した。彼は立ち上がってもう一度身をかがめた。」@
 
これがラスコーリニコフの悔い改めと回心でした。そして彼は横丁を横切ってまっすぐに警察署に行き、自首したのです。その時、彼にとってソーニャによって語られた十字架の言葉は救いの力として現れたのです。もはや彼の心の罪責は軽くなり、不安は消え、喜んで自分の犯した罪の償いを地上でしようと決心したのです。十字架のキリスト、その本当の姿が見えてきた彼は、地上での裁きは最早耐えられぬほど恐ろしいものでは無くなりました。殺人の罪を犯す自分をも、悲しいまなざしで見つめつつも、無知ゆえの罪を自分に引き受け、赦して下さるキリストの愛を信じることができたのです。

「すべての者は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みによって、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ人への手紙3章23節)ラスコーリニコフの心にイエス・キリストが復活したのです。

  私たちには十字架のキリストが見えているでしょうか。自己中心的な思いで人を裁く人間になってはいないでしょうか。「いと小さい者にしたことは自分にしたことと同じだ」とイエス様はおっしゃいました。人を憎むことはイエス様を憎むことだと知らねばなりません。自分を苦しめ悩ます人であっても、イエス様に倣って、その人のために祝福を祈る人になりましょう。人の救いを求める「とりなしの愛」をイエス様から豊かにいただきましょう。その愛の努力こそ、神の子の印です。

@ ドストエフスキー『罪と罰』(中村白葉訳、岩波書店)より引用。













 

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