とりなしの祈り
   
  



Message 64                                              斎藤剛毅

   
1.祈りの普遍性と具体例
 祈りは人間が生まれながら持つものであることは、「人間は祈る動物である」という表現や、アメリカ・ハーバード大学教授ウィリアム・ジェームス教授が、「人は祈らないでいることが出来ないから祈るのだ」と述べた言葉や、祈りは古今東西、世界の諸宗教に存在することから分かります。辞書に見られる祈りの定義を調べてみますと、「心を込めて神仏に願うこと、人から神仏への行為」と定義されています。

 大宰府天満宮に見られる人々の祈願の例は、受験合格、安産、交通安全、健康回復、厄払い等の祈願があります。祈願の背景には不安の心理が存在します。結核療養所で、「神様が一番欲しいものをプレゼントして下さるなら何を求めますか?」というアンケート質問に、殆どの人が「健康」と書いたそうです。健康維持と健康回復願望は、世界中の人々の願いであり、生命への強い執着と深く結びついています。

2.イエス様は癒しの願いに答えられた
 新約聖書を読みますと、多くの病人がイエス様の元に運ばれて来ます。イエス様は彼らを憐れみ癒されました。ですからその奇跡的癒しを一目見たいと群衆が押し寄せます。汚れた病とされていたハンセン氏病患者は遠くから叫んで癒しを求めました。長い間出血で悩んでいた女性は、群衆に紛れてイエス様の衣に触って癒されることを求めました。悪霊の仕業と考えられていた精神的病気も、イエス様の悪霊追放により、癒されたと福音書は書いています。
 
生まれながらの盲人の目が開かれ、足の不自由な人が癒され、ナインの町の未亡人の息子が死から甦り、会堂司の少女も生きかえり、ラザロが墓から出てくるという奇跡が書かれていますので、昔も今も病気の苦しみからの癒し願望、死の病からの解放願望が如何に強いかが分かります。そして、神の御子イエス様は病の癒しを願う人々の気持ちを決して拒絶されなかったことを知るのです。

3.祈りの潜在性
 祈りが心の奥に潜んでいることは、危機が迫ると祈りの衝動が解き放たれて現れることから分かります。「助けてください!」はその典型的な例です。イギリスの奴隷船の船長だったジョン・ニュートンが大嵐に見舞われ、神の助けを求める祈りの中で彼のために祈る母の姿を幻の中に見て回心し、伝道者となった実例があります。彼は讃美歌Amazing Graceの作詞者です。旧約聖書の詩篇の中に、危機の中での祈りが見られます。詩篇107篇19−20節に、「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、その御言葉をつかわして、彼らを癒し、彼らを滅びから助け出された。」とあります。

4.幼児的祈りから大人の祈りへ
 衝動的祈りは、ともすれば人間の創造者である神様を危険な時に人間が呼び寄せる存在にしてしまう危険があります。その時、祈りは自己中心的なものになり、神様はご利益をもたらす神に成り下がってしまいます。幼児は欲しいものをねだります。子供を愛する親はあくまで子供にとって益となるものだけを与え、子供に害となるものを与えません。子供は成長して親が拒絶した理由が分かるようになります。真実の神様は、私たちの祈りを聞いておられますが、私たちの信仰の成長にとって必要なものだけをお与えになります。

イエス様の譬話に放蕩息子の話があります。弟息子は「父よ、あなたの財産のうちで私のいただく分をください」と願います。幼児的願望です。放蕩に身を持ち崩し、財産を失い、豚飼いになって飢えを凌ぐどん底生活を体験し本心に立ち返った息子は、父親の元に帰って「もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人の一人同様にしてください」と父親に頼みました。前の願いと後の願いとの間に大きな差があります。前の願いは父親から財産を分けてもらい、離れてゆく自己中心の願いです。後の願いは父親の言うことを従順に聞いて生きてゆきたいという願いです。聖書を読むと、私達が自己中心的な願望としての祈りから、人に幸せをもたしたいと願う祈り、神様の御心に従いたいと願う祈りへと成長することを願う神様の教えがあることを知ります。


5.とりなしの祈り
 とりなしの祈りの原型は主イエス様の祈りにあります。主イエス様に促される祈りは、他人の幸せのために、自分の時間を割き、喜んで犠牲を捧げる祈りです。迫害され罪を着せられ、十字架刑に処せられ、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ福音書24:46)と祈られたイエス・キリストの祈りは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられた通りの実践的・模範的祈りでした。この祈りは神の祈りというべき高尚な祈りです。私たちは中々実行できませんが、イエス様はその高さへと招いておられるのです。

イエス様はペテロがサタン悪魔の誘惑に負けて、失意の極みに至る事を予測なさり、「あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈った」と語られます。イエス様ご自身が愛する弟子のためにとりなし祈られたのです。ペテロが受けた誘惑は三度も主イエス様の弟子であることを否定してしまう誘惑です。へブル人への手紙7章24−25節に「キリストは永遠にいます方であるので、変わらない祭司の務めを持ち続けておられる。キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人をいつも救うことが出来るのである」とあります。

そのイエス様の祈りを継承して、イエス様の御霊、聖霊も弱い私たちのためにとりなし祈って下さるのです。使徒パウロは「御霊、聖霊は、クリスチャンのために、神の御旨にかなうとりなしをしてくださる」(ローマ8章27節)と語ります。エペソ人への手紙では「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目を覚まして倦むことなく、全てのクリスチャンのために祈りなさい」(6章18節)と勧めます。ここで私たちが教えられることは、とりなしの祈りはイエス・キリストの業であり、御霊・聖霊の業であるということです。そして、父なる神様は私たちもとりなしの祈りに励むことを願っておられるということです。何故でしょうか?私たちは神の子です。父なる神様の喜びは神の子の喜びです。神様の喜びは人が悔い改めて救われることです。人が救われる喜びを父なる神様は私たちにも分け与えようとなさるのです。


7.とりなしの祈りの力
 とりなしの祈りはどのような力を発揮するのでしょうか?北欧のノルウエーで有名な霊的指導者であり、オスローの独立神学校の校長であり、優れた説教者でもあったハレスピー博士が、多くの人々に感化を与えた書物『祈り』の中で紹介しておられる「とりなしの祈りの力」を紹介します。ボレット・ヒンデルリは平凡な農家の娘です。彼女はある日、刑務所にいる一人の囚人を幻の中に見ました。囚人の顔や姿をはっきりと見たのです。そして主の声を聴きました。「もし誰もこの男のために祈りの業をしないならば、彼もきっと他の犯罪者と同じ運命をたどるであろう。彼のために祈れ!わたしは彼を異邦人に福音を宣教するために遣わすであろう。」

 彼女は主の声に従いました。ボレットは囚人を知りませんでしたが、彼のために心を注ぎ出してとりなし祈りました。そして主の約束が実現する日を待ち望みました。やがて、この囚人は心から悔い改め、主イエスを信じ、厚生に励み、刑務所から出ると宣教師として召されたのです。彼女がノルウエーのスタヴェンガーの町を訪れた時、その晩、一人の悔い改めた囚人が説教することになっていると聞きました。彼女は教会に行き、説教者(ラース・オルセン・スクレックスフィールド)を見ました。その時、彼女は彼こそ幻の中に見た人であることを知ったのです。スクレックスフィールドは神の恵みを証しする説教者として用いられていました。

神様はとりなしの祈りを用いて、人に隠されている賜物を引き出し、お用いになるとハレスピー博士は語っておられます。(この実例は、O.ハレスピー著『祈り』(東方信吉・岸千年訳、聖文舎、77頁に紹介されている。)私たちが救いに導かれる時、誰かが背後にあって祈っていることを知ることは、とても大切です。その祈りを促しておられるのは、主イエス様であり、主イエス様の御霊、聖霊なのです。あなたもイエス様に祈られていることを知って下さい。














 

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