サマリヤの井戸のそばで
   
  



Message 63                                              斎藤剛毅

   
イエス様がサマリヤのスカルという町にある有名なヤコブの井戸まで来られた時、「旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばに座っておられた」とヨハネ福音書は語っています。弟子たちは食物を買いに町に出かけており、「時は昼の12時ごろであった」とあります。外は焼け付くような暑さで、人々は戸を閉めて外からの熱気を遮断して、しばしの昼の休息を取るために仕事を止め、食事と団欒を楽しむ時でありました。
 誰もヤコブの井戸に水を汲みには来ない昼の12時頃を見計らって、一人のサマリヤの女性がヤコブの井戸に向かって歩いて行きます。彼女は村人と顔を合わせないで水を汲む時間は昼の12時頃と知っていたのです。彼女は過去に5人の男と夫婦関係になり、その5人と分かれ、現在同棲している男は正式に夫とは呼べない人でありました。世の人々から「男運の悪い女」と見られ、冷たい視線と人の囁きがうとましく思われたからでありましょう、女は村人と井戸のそばで会うことのない時間帯を選んで、井戸水を汲みにやって来たのです。
 彼女は生きることに疲れていたと思います。かつて若き日に夢見ていたこと、即ち一人の愛する男性と出会って結婚し、子供にも恵まれて幸福な家庭を築き、一生涯、妻として連れ添いたいという夢は儚くも破れ、結婚生活は理想から遠く、愛の破綻をきたし、一方的に離婚させられ、今度こそと願って結ばれた夫は若くして死に、孤独の悲しみに沈み込んでいた時、やさしく慰めてくれた男に心惹かれて結婚しても、やがて幻滅が訪れ、彼女の心が満たされないことを察してか、男は浮気に走り、……というようなことが生じたのではないかと想像することが出来ます。
 いずれにしても、5人の夫を持つということは、彼女は男の愛なしには生きられない弱さを持った悲しい女性であったということでしょうか。あるいは裏切られても、裏切られても真実の愛を男に求め続けた愛の遍歴者というべきでしょうか。最後は結婚の望みさえ捨てて、男と同棲関係を続けながら、「身持ちの悪い女」と言われてもしょうがないと自分の悲運を嘆きながら生きていたとも言えるのです。彼女に関するこの聖書の記事は想像の中でしか考えられないのですが、彼女の魂はかなり空しく、乾いていたと想像できるのです。誰もいない井戸に水を汲みに出かけるというヨハネの描写の中に、サマリヤの女の魂の渇きと人生の悲哀が象徴的に描かれていると思えるのです。
 人は水を飲んでも、また渇きを覚えます。それと同じように、人の心も真実の言葉、愛のこもった言葉を求めて乾いています。親切でいたわりの溢れた言葉、大きな愛で自分のありのままを受け入れ、包み込んでくれる言葉、自分の欠点に目をつぶって、自分の長所や良いところをいつもほめてくれる言葉を求めて乾いています。しかし、現実はその反対のことの方が多く、人々は愛と真実の伴わない言葉に傷つき、悩み、孤独です。ここに登場する一人の女性は、心が乾きつつ、癒されることのない淋しさを胸に潜めつつ、井戸のそばに近づいて行ったと思われるのです。
 そこに、イエス様が座っておられました。サマリヤの女は、明らかにユダヤ人と思われる一人の男性から「私に水を飲ませて欲しい」と頼まれます。女は考えます。「ユダヤ人たちからは混血の民として軽蔑され、交際も避けられ、声もかけられることもないサマリヤ人なのに、また人々から“みだらな女”と噂されるような罪深い自分なのに、この人は声をかけてくれる。それにしても、この人の目は何と美しく澄んでいることだろう!しかも、清い心の中に何とも言えない温かいものが波打っている。今まで私が接してきた男たちに見られなかった愛の深さが感じられる。この人は一体誰であろう?」彼女は尋ねます。「あなたはユダヤ人なのに、サマリヤの女に、水を飲ませてくれとおっしゃるのですか?」(4:9)。「あなたはなぜ、私のような者に声をかけられるのですか?」
 イエス様は答えられます。「もし、あなたが神の賜物のことを知り、わたしが誰であるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、“生ける水”をもらおうと思うだろう。」更に言われます。「井戸水を飲む者は誰でもまた乾くであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧きあがるであろう」(4章13−14節)。
 いつまでも渇きを覚えないということは、体の中に泉があるということです。しかし、そんな泉が私たちの体の中に生じるはずがありません。ここでイエス様が言われる水とは、霊的な意味での水であることが分かります。魂が渇くということは、精神的、霊的な事柄です。驚くべきことに、イエス様は「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧きあがるであろう」と言われたのです。黙示録(21:6)の中で、イエス様は語られます。「わたしは初めであり、終わりである。渇いている者には命の泉から価なしに飲ませよう。」黙示録7章17節には、「御座の正面にいます小羊(キリスト)は、彼らの牧者となって、命の水の泉に導いて下さるであろう」とあります。イエス様は私たち迷い易い人間の羊飼いとなって、命の水の泉に導いて下さり、渇いている者に無償で飲ませて下さると約束しておられるのです。
 イエス様はヨハネ福音書の中で次のようにおっしゃいました。「誰でも渇く者は、わたしのところに来て飲むが良い。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れるであろう。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(7章37−39節)。御霊とは神の霊、聖霊です。霊の姿を取って信じる者の内に臨まれ、宿るイエス・キリストです。イエス様を信じる者のみが受けることが出来る神の霊が語られています。イエス様のみが魂を真実に潤し満たす命の水を与えることが出来る方だと聖書は語ります。
 サマリヤの女は、イエス様の話された言葉の霊的な意味を理解することが出来ませんでした。魂の渇きをもてあましていた彼女は、暑さの中を井戸まで水を汲みに来る必要がなくなる話に飛びつくように、「ここに汲みに来なくてよいように、その水を私に下さい」と怠惰で、情けない要求をします。イエス様は彼女の魂の渇きを洞察なさり、「あなたの夫を連れて来なさい」と言われます。女は「いません」と答えます。イエス様は「もっともだ。あなたにはかつて5人の夫があったが、今のは夫ではない」と言い当ててしまいます。彼女は過去の悲しい自分の結婚がすべて見抜かれ、洞察されていることを知ります。
 がさつで心が荒れている自分。5人の夫を持った自分を、世の人々は「男運の悪い女」と噂し、自分の過去にこだわり、自分を冷たく見据えて裁き続ける。最早親身になって自分の魂の状態のことなど考えてもくれる人などいないのに、この人は自分の魂の渇きをいやそうとしておられる。イエス様の中にある不思議な大きい愛を感じて、また過去を見抜く洞察力のすごさに驚き、「あなたは預言者だと思います」と語ります。更に、「私はキリストと呼ばれるキリストが来られることを聞いております」と述べました。イエス様は「あなたと話しているこのわたしがそれである」と語られ、彼女は驚きます。
 彼女は町に出て行って、「私の過去を言い当てた人がいます。この人はキリストかもしれません」と語って、多くの人々を連れて来ます。そして、人々はイエス様の話を二日間にわたって聞き、信じたのです。そして言います。「私たちが信じたのは、あなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく接して、聞いて、この人こそ真の救い主であることが分かった」(4:12)。この言葉はとても大切です。私たちは人に誘われて教会に行き、説教を聴き、聖霊において臨在されるイエス様に出会い、聖書を読んでイエス様の言葉を聴き学ぶのです。そこから信仰が生まれます。「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からくるのです」と使徒パウロはローマの信徒たちに宛てた手紙の中で語っていますが(10章17節)、この言葉は真実です。
 ユダヤの男性支配の社会にあって、数々の屈辱を味わい、人々から白眼視されていた一人の悲しい、魂の渇いた女性が、村の多くの人々をイエス・キリストとの出会いに導いた器として用いられたということは何と素晴らしいことでしょうか。イエス様の弟子ヨハネは、福音書を書いた際に、このサマリヤの女性のことを一章の殆どを割いて書いていることにも注意を払いたいと思います。
 使徒行伝を読みますと、イスラエルで起きた聖霊降臨の出来事の後に、多くのユダヤ人がキリスト信仰に導かれ、その後に激しい迫害がエルサレムの教会に対して起こり、その結果、「使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤの地方に散らされていった」と書かれています(使徒行伝8章1節)。8章3節には、「(回心以前の)パウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らし回った」とあります。教会の執事、ステパノが石で撃ち殺された時に立ち会ったのは、この回心以前のパウロです。
 使徒行伝8章4節以下を読みますと、このように述べられています。「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、巡り歩いた。(使徒)ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた。…ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。」(8:4−6;12)。信じてバプテスマを受けた人々の中にヤコブの井戸のそばでイエス様の話を聞いたサマリヤの女も含まれていたのではないかと私は考えます。
 私がヨハネ福音書4章を読んで教えられることは、サマリヤの女のように世間から白眼視され、後ろ指を指され、人の視線を避けて生きていたような女性でも、人々をイエス様の元に導く器として用いられるということです。この女性の働きがあったからこそ、後に使徒ピリポがサマリヤにやって来て、イエス・キリストの話をした時、人々は信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けたと言えるのです。即ち、彼女はピリポが伝道のする前にサマリヤの人々の心をキリストに向かわせていたとのです。
私が1963年から6年間、兵庫県明石で開拓伝道をした時、地域の人々がキリストの福音に無関心であることに驚き、伝道の困難に直面したのですが、5年の留学後に福岡市南区の長住教会の牧師として招聘され、13年間伝道・牧会に従事したのですが、明石の人々より福岡の人々は4倍以上、エス・キリストに心を開いていることを知りました。それは西南学院、福岡女学院、カトリックの学校などのキリスト教主義学校が存在し、それぞれの学校が創立以来、一貫として福音の種播きを聖書の授業において行ってきたからだと分かりました。福岡市内の教会は、ミッション・スクールで働いた多くの宣教師、クリスチャン教師の祈りと働きの恩恵を受けているのです。そういう意味では筑紫野市は福岡市より伝道が困難な地域と言えます。
私は18歳の時に命の水が湧き出ている教会に導かれ、福音説教を聴き、イエス・キリストが罪責に悩む人々を救い出すために人間となられた神様であり、十字架の死において罪を贖って下さった救い主であることを信じた時に、聖霊を受けました。父なる神の愛が聖霊において私の魂に注がれたのです。私の中に「天のお父様!」と呼びかける祈りが生じ、罪赦された喜びが私の心に溢れました。罪深い自分を憎んで、自分を裁き、人を裁いていたのですが、父なる神様が私の罪を赦し、愛し受け入れて下さっていること信じた時、自分を受け入れ、人を赦すことが出来るようになりました。そして、聖霊は命の水となり、魂を潤し、私の魂の渇きは癒されたのです。
私は伝道者になるには相応しくないにも関わらず、召命を受けて、福音宣教を続け、イエス様にお仕えしてきました。イエス様を信じ、受け入れた人は、信仰告白をし、バプテスマを受けて、信仰生活を続け、聖霊の実である神様からのみ与えられる深い平安と喜び、赦す愛と寛容、人への善意と親切、誘惑に対する自制と賛美が生まれる人へと変えられていきました。魂に渇きを覚える人々がイエス様から聖霊を受け、命の水を受けて、魂の渇きが癒される事実を知ることは、大きな喜びでありました。
現代において人々がキリストの話を聞くことが出来る場所はキリスト教会です。私たち迷い易い人間を命の水の泉に導いて下さる方、魂の渇いる者に「無償で飲ませてあげよう」と呼びかけ、信じる者に命の水を与えて下さる方、イエス・キリストに応えて、皆様が命の水を受けて、魂の渇きが癒されますように心から祈ります。














 

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