主イエス様が愛されたように愛する
   
  



Message 62                                              斎藤剛毅

   
  イエス様は弟子達に言われました。「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたはわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。(ヨハネ福音書13:34−35)
 
イエス様が弟子達に与えた新しい戒めは、イエス様が弟子達を愛したように愛し合いなさいというものでした。旧約聖書の戒めと違うところは、イエス様が愛されたように愛し合いなさいということです。
更に言われました。「わたしのいましめを心に抱いてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者はわたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身を現わすであろう」。(ヨハネ福音書14:21)

イエス様の愛を心に留め、その愛に倣い、実践する者は、イエス様を愛する者であり、父なる神様にも愛されるという教えはとても大切です。イエス様が愛されたように私たちが互いに愛し合うことには、二つの素晴らしい恵みが約束されているのです。
 一つは、父なる神に愛されるという恵みの体験です。使徒パウロはこの恵みの体験を「神は、神を愛する者たち、即ちご計画に従って召した者たちと共に働いて万事を益にしてくださる」と表現しています。全てを最善に導かれる神の愛の体験です。もう一つは、イエス様からも愛され、互いに愛し合うことの中に、イエス様ご自身が臨在してくださるという恵みの体験です。イエス様は言われました。「誰でも二、三人がわが名において集う所にわれもおるなり」。(マタイ福音書18:20)これが祈祷会で二、三人が一組になって心を合わせて祈る時に、いつも体験することなのです。

 それでは、イエス様は弟子達をどのように愛されたのでしょうか?まず第一に心に留めなければならないことは、イエス様の愛には選びがあったということです。イエス様は次のように語られました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、立てた。それはあなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためである」。(ヨハネ福音書15:16)

 私たちが求道を始め、イエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受けてクリスチャンになる決意をすることに先立って、イエス様の愛による選びと導きが、まず
あったから信仰の決断に至ったのだと教えられるのです。しかも、その選びは、私たちが特別に善い行いをしたからとか、優れた業績を積み重ねたとか、神様に愛される素質を持っているとかに関係なく、老若男女、人種、民族、学歴、地位、財産、能力に関係なく、無条件にイエス様の愛ゆえに選びがなされるということなのです。

使徒パウロは語ります。「兄弟たちよ。あなたがたが召された時を考えてみるがよい。神はこの世の愚かな者を選び、この世の身分の低い者や軽んじられている者、即ち無きに等しい者をあえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも神のみ前に誇ることがないためである」。(コリント人への第一の手紙1:26−29)

 イエス様が選ばれた弟子たちは、この世では身分が低いと考えられていた学暦の無い漁師たちや、人々から軽んじられていた税金取りなどが中心になっていました。しかも、それぞれに弱点や欠点を持っている弟子たちでした。一番弟子と言われたペテロは三度もイエス様を知らないと言い張った人、ローマでの殉教死を恐れて逃げ出した臆病者でした。ヨハネは直ぐに怒りを顔に現わす短気者でしたし、ヤコブは神の国で右大臣か左大臣の地位を求める野心家でした。トマスはイエス様の復活を手で触れなければ信じないと主張した実証主義的懐疑派でした。イスカリオテのユダは裏切り者です。そんな様々な個性と性質の違う弟子たちを、イエス様は最後まで愛し続け、忍耐をもって教育なさり、神の国を語り、真理を教えられたのです。

 イエス様を中心に12弟子たちとその周りに信仰深い婦人の信徒達がおりました。その信仰グループは後のキリスト教会の原型となるのです。イエス様は信仰グループという人間関係の中で弟子たちを愛されたのです。私たちも弟子たちと同じように弱さや欠点を持っています。時には怒り、いらだち、不寛容になり、人の悪口、批判を言い、心で人を裁き、自分を苦しめる人は愛せないのです。そんな私たちをイエス様は愛をもって選び、信仰に導き、具体的にキリスト教会という場所で、イエス様が愛されたように私たちが互いに愛し合うことを求められるのです。

 しかし、私たちはイエス様が愛されたように互いに愛し合うことは、自分自身の努力だけでは不可能です。イエス様の愛を私たちが受け続けることによってのみ、可能なのです。パウロはコリント人への第一の手紙13章の中で、愛を定義しています。「愛は寛容であり、情け深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることはない。…いつまでも存続するものは信仰と希望と愛と、この三つである。このうち最も大いなるものは愛である。」(13:4−8;13) 私たちはこの愛の定義の実践者としては失格です。しかし、イエス様は愛の定義の内容をすべて満たすお方であることが分かります。ですから、私たちは心を開いてイエス様から愛を受け続けるのです。そのことによってのみ、イエス様が愛されたように互いに愛し合う道が開かれるのです。

 イエス様は2010年前に、ユダヤの国という場所に生きておられました。復活されて、天にお帰りになってからは、天界の義の太陽として神の国を支配しておられます。そして、この地上においてイエス様を信じ、信仰に生き抜いた人々のために神の国の住いを用意して待っていてくださいます。イエス様はもはや時間と空間に制限されることはありません。聖霊という姿を取って、全世界のどんな場所でも同時にご自身の霊的姿を現わすことがお出来になるのです。パウロは「御霊、聖霊の実」という言葉を用います。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、柔和、忠実、自制である」と語ります。私たちが信仰と祈りによって、イエス様に繋がっているかぎり、心にイエス様をお迎えして、御霊の実を与えてくださいと祈り求め続けると、御霊の実は私たちの心に結ばれてゆくのです。

 私たちが御霊の実を結ぶ時、イエス様が私たちの中に働いていてくださることを実感するのです。そして、「いつも喜んでいなさい。絶えずいのりなさい。すべてのことに感謝しなさい」という勧めが生活の中で現実となるのです。「喜び、祈り、感謝すること」「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることであるので、御霊を消してはならない」と聖書は語るのです。私たちが信仰によってイエス様に繋がっており、心を開いてイエス様の御霊を受け続けるかぎり、決して御霊の働きを消すことはないのです。

 イエス様が愛されたように私たちが互いに愛し合うことは、具体的には教会という神の家族の中で行われるのです。教会における私たちは「兄弟姉妹」として信仰の交わりをします。この交わりは死後復活して神の国で続く、永遠に続く信仰と希望と愛に基づく交わりなのです。しかし、血の繋がりによる地上の肉親の家族は、信仰による神の家族とならない限り、死んだ後にばらばらになり、神の国における再会の喜びはありません。イエス・キリストの愛の中で愛しあうという恵みはただイエス・キリストによってのみ道が開かれました。イエス様は言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6)

 教会には神の聖霊が働いている場所です。礼拝に出席していますと、親鳥が卵を抱いて温め、ひよこの命が生まれるように、母なる聖霊が人間の霊を覆っていると神の子という新しい命が教会に誕生するのです。聖書に「聖霊によらなければ、だれも“イエスは主である”と言うことはできない」(Iコリント12:3)とある通りです。神の子として誕生した人は信仰告白し、バプテスマを受けて、神の家族の仲間入りをし、イエス様が愛されたように私たちが互いに愛し合うように導かれ、信仰が訓練されてゆきます。

 イエス様が年老いたニコデモに言われたように、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(ヨハネ福音書3:3)のです。赤ちゃんが乳を飲みながら成長しますように、新しく神の子として生まれた人は霊の糧である神の言葉を学び、信徒の愛の交わりの中で成長しえゆくのです。そして、神との交わりを祈りの中で深め、日々心を開いて聖霊を受け、御霊の実を結び、イエス様が愛されたように互いに愛し合うことを学び、クリスチャンとして成熟してゆくのです。













 

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