神の国を継ぐ復活のからだ
   
  



Message 61                                              斎藤剛毅

今日は聖書の語る「復活のからだ」というテーマを緒に考えましょう。
使徒パウロは、「人間の肉と血は神の国を継ぐことはできない」と語ります。人間が死ぬと肉体と血は朽ち果て、腐るので、土葬や火葬にふされます。世界一長寿の祝福を受けた日本人は114歳でしたが、この方も亡くなりました。人間は決して死には打ち勝てないのです。神に選ばれ、霊感を受けて手紙を諸教会宛に書いたパウロは、「死のとげは罪である」と語ります。猛毒の付いたとげが体に刺さりますと、毒が血液の中を巡って人を死に至らせます。人間を死に至らせるのは毒の付いたとげ、即ち罪であるというパウロの表現は誠に真実を穿っています。

 パウロは自分の肉体に宿る罪の力を見事に表現しました。そして、「誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」とうめいています。そして、「あなたがたが罪の奴隷であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは今でも恥とするようなものであった。それらのものの終極は死である」(ロマ6:20−21)と述べるのです。私たちが自分の過去の罪深い行為を探る時、人には言えない、そっと胸の内に隠している恥ずべき行いがあると自覚する人は多いのです。パウロは人間が犯す罪の行為を列挙し、罪の力が宿る死ぬべき体は神の国を継ぐことは出来ないと明確な語調で語ります。これがパウロの自己体験による結論なのです。

 驚いたことに、この死ぬべき体を持つ私たちに、神の国を継ぐ「復活のからだ」への道がイエス・キリストによって開かれたと使徒パウロは語るのです。これは驚きのニュースです。どのようにしてその道が開かれたのでしょうか?それは、イエス・キリストが人類の罪を贖うために十字架で死に、死から甦ることによって罪の力を滅ぼしてしまったからだとパウロは語るのです。

 「神の国を継ぐ復活のからだ」とはどんなからだなのでしょうか?コリント人への第一の手紙15章でパウロは、「霊のからだ」について語ります。血の通う人の体は死んだら朽ち果てるのですが、霊のからだは朽ち果てることのない永遠性を保つものだと述べるのです。地上での肉体と霊のからだはどのような連続性があるのでしょうか?死によって朽ち果て、消滅してしまう斎藤剛毅の肉体が、世の終わりに、即ち終末が来て、霊のからだに変えられて、神の国に                  
甦り、永遠に生きるというのです。霊のからだに甦るまで、私たちは死後、眠り続けるとパウロは語ります。

 この世の常識では理解が困難な「霊のからだ」への甦りを、パウロは植物の種のたとえを用いて説明します。「神は一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになっている」(15章38節)、それと同じだというのです。種は土の中に播かれることによって種の形は死にます。種の命が死ぬのではありません。種から根が生え、芽が出て成長し、神が計画されたからだになって実を結んで完成するのです。人間の肉体は種に例えられています。この肉体が霊のからだとなって完成するというのです。
小さな「からし種」は鳥の巣を宿すほどの木に成長します。種と木との間には、大きな質的な差がありますように、地上での人間の肉体と神の国で与えられる「霊のからだ」との間にも大きな質的差があるのです。 

神様は私たちがよく理解できるように自然の中に良きモデルを備えて下さっています。その一つは、蝶のモデルです。蝶の幼虫は柔らかい葉を食べながら成長して、やがて蛹になります。時が来るまで眠り、時が満ちると殻を破って蝶の姿を現し、やがて空中へと飛び立ちます。二次元的な動きから三次元的な動きへと飛躍するのです。幼虫と蝶の間には質的な差があります。私たちの体は三次元空間を動き回りますが、死んで眠りにつき、復活して神の国で与えられる霊のからだは、霊の次元で羽ばたき、神の国でキリストに仕えながら活動する永遠の命を宿すからだであるというパウロの説明には胸がときめきます。

パウロは肉体を「朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの」と語り、霊のからだを「朽ちないもの、栄光あるもの、強いもの」と語ります。朽ちるしかない命が、霊のからだとなって、朽ちないもの、栄光あるもの、強いものに変えられるというのです。これがパウロの語る復活の福音です。

パウロは、朽ちない、永遠に死ぬことのない霊のからだを着るという表現をします。霊のからだを着る私たち自身が、霊のからだを着るに相応しい者に変えられなければならないのです。イエス様は「新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」とニコデモ老人に話されました。生まれ変わるために、罪によって穢れている私たち自身が、私たちの魂が神の聖なる霊によって清められ、神の子として新生する体験をしなければなりません。この神秘的出来事が自然界の出来事によって神様から示されています。

親鳥と卵のモデルを神様は用意してくださいました。親鳥は生んだ卵の上に覆いかぶさって一定期間温めます。すると、殻を破って雛が誕生します。それと同じように、教会の礼拝に出席して、聖霊に覆われ、神の言葉を聞き、神の愛に包まれ続けていると、私たちはイエス・キリストの父なる神を、「父よ」と呼ぶ神の子として誕生するのです。新しい命が誕生するまで教会に留まり続け、神の愛を受け続けることが必用です。神の子の誕生は、父なる神様の霊によってなされる神秘的、奇跡的業なのです。一夜にして誕生することもあります。

田原米子さんの例をあげましょう。鉄道自殺をはかって、左腕を失い。右手の薬指と小指を失い、両足も切断されてしまった米子さんは、意識を回復したのち、睡眠薬自殺を計画するのですが、何度も病床を訪れる宣教師よりキリストの福音を聞き、反省します。自分はわがまま一杯に生きてきたこと。そして、そのわがままを貫いて、家族の悲しみを考えないで自殺を図り、こんな姿になってしまったこと。これからは神様の愛に賭けてみようと決心し、祈りました。彼女は初めて心が安らぎ、ぐっすりと眠ることが出来ました。翌日目を覚ました時、前の悲しみは消えていました。驚いたことに3本の指が残っているという喜びがありました。それまでは、失った17本の指を考え、悲しんで死ぬことばかり考えていたのに、残された3本の指を喜ぶ心に変えられていたのです。

 何故だろうと思って、聖書を開いてめくっていると、次の言葉が目に留まりました。「だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。これらの事は、神から出ている。」(コリント人への第二の手紙5章17−18節)何回も何回も噛みしめるように読んで、米子さんは自分の心が神様によって新しくされたことを知って喜びました。それ以来、米子さんは神様の愛、イエス様の愛を心に受けて生きるようになったのです。それは米子さんの魂における新しい誕生でありました。

私たちが神の国を継ぐ霊のからだを着る恵みにあずかるためには、この地上で大切な条件を満たさねばなりません。その条件とはイエス・キリストを信じることです。信じる内容は信仰生活を続ける中で深められてゆきます。イエス・キリストが人類の罪を負い、十字架上で亡くなられたこと、葬られて三日目に死を打ち破って甦られ、霊のからだで弟子たちに現れたこと、それから、天の霊界にお帰りになり、義の太陽、真理の王となられたことを信じることが大切です。イエス・キリストを信じる信仰により神の国に甦ると固く信じることを、                 
父なる神様は求めておられるのです。

私たちが信仰を全うして死に、眠りにつくのですが、世の終わりが来たとき、一瞬にして変えられ、「死は勝利に飲まれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死よ、お前のとげは、どこにあるのか」(コリント人への第一の手紙15章55節)とパウロは語ります。「感謝すべきことには、神は主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないからである。」この言葉をもってパウロは手紙の15章を締めくくります。

もし、復活がないならば、私たちの命はどうなるのでしょう。死の恐怖が私たちを捕えます。死が人生のゴールとなり、生き残るためにあらゆる努力をします。命ある間に人生を楽しみ、快楽を求め、罪深い欲望に駆り立てられてゆきます。それこそ罪の力に支配されている姿です。死の勝利です。その反対がイエス・キリストを通しての神の勝利、復活です。私たちは神に向き直り、死の彼方に、霊魂の故郷である神の国を待ち望みつつ、艱難・苦難を忍び耐え、復活の希望を持ち、神によって一人一人に与えられた賜物を、神と人とに喜ばれるように用い、神の国をめざす旅人としての人生を送るようになるのです。いつも喜び、全てのことに感謝し、絶えず祈り、賛美する日々を送るようになるのです。

註 このメッセージの中の聖書の言葉は、日本聖書協会口語訳によるものです。













 

inserted by FC2 system