死からのよみがえり
   
  



Message 60                                              斎藤剛毅

キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのはどうしたことか?(コリント人への手紙15章12節、聖書協会口語訳)

 使徒パウロが書き送った手紙の送り先は、ギリシャのコリント教会でした。この教会にはギリシャ人信者とユダヤ教から改宗したユダヤ人信者がいました。ギリシャ人もユダヤ人も、それまで生きてきた教育環境と伝統文化の中で、自然と身に着けた思想や死生観を持っていましたから、キリスト教の復活の教えはとても新鮮な響きがあり、また驚きでもあったと思います。

 ユダヤ人は小さい時から家庭で両親から宗教教育を受け、ユダヤ教の会堂で旧約聖書を学習します。旧約聖書の死に関する記述を調べてみますと、人間は死後、陰府(ヘブライ語ではシェオール)という死の国に行くと述べています。詩篇6篇5節を新共同訳聖書で読みますと、「死の国へ行けば、だれも神の名を唱えず、陰府に入ればだれも神に感謝を捧げません」と訳しています。死の国、即ち陰府(よみ)では、神の名を唱えることもなく、神への感謝もないという暗いイメイジしかありません。イザヤ書も同じです。「陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたを賛美することはできない。墓に下る者は、あなたのまことを望むことはできない」(38章18節)と語ります。死ぬことは墓、陰府に下ることであり、そこには感謝も賛美もなく、神の真実を望めないのです。

新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」と名づけられている「伝道の書」9章5節は、「生きている者は、やがて死ぬということを知っている。しかし死者はもう何一つ知らない。彼らはもう報いを受けることも無く、彼らの名は忘れられる。愛も憎しみも、情熱も消え失せ、太陽の下に起こることのどれ一つにも関わりもなくなる」と述べます。神を畏れない悪人が悩み苦しみに遭うのは当然でも、神の前に正しく清く生きても、この世で悩み苦しみ、死んで地上での善行に何の報いもない死の国に入っていくのなら、働いて得たものによって食い飲みし、心楽しく生きるしかすべはない。人生とは何と空なることか!と「伝道の書」は語るのです。旧約聖書の中には明確な天国の教えがないのです。

ギリシャ人は魂の不死を信じていました。霊魂は肉体という牢獄に監禁されていると考えました。肉体は物質であり、悪でありました。霊魂は善であり、真理と善を追及する永遠的存在でした。ですから、死によって牢獄から解放された霊魂は、神の霊界へと帰って行き、神の普遍性の中に吸収されるのです。ギリシャ人は個性を持った人格が、知性、感性、意思を持ち合わせて、永遠に神の世界で生きるとは考えなかったのです。ユダヤ人もギリシャ人も、死んだ後に、愛する者との再会を喜び、共に神に感謝し、賛美する天国の存在を教えることはなかったのです。

日本人は死と死後についてどのように考えるのでしょうか?日本には仏教の教えが深く浸透しています。歴史の中で偉大な僧侶が出現して、種々の教派が生まれました。中国伝来の禅宗は、人は死んで骨を残して終わりと教えます。浄土宗も中国伝来の宗教です。中国の霊魂不滅の思想と結びつきましたので、阿弥陀仏の教えに帰依した信者は、死んで極楽浄土に生まれ変わると教えます。

しかし仏教の始祖であるゴータマ・ブッタは、死後不変の魂は無く、死後は原因・結果の業(ごう)の法則によって、人の命は現れては消えてゆく儚い存在であり、四諦八正道という業の法則から自由になる修行の道を説きました。しかし、中国や韓国を経由して、日本に伝えられた仏教も、日本古来の神道や古い時代からの宗教によって変質し、先祖の霊を仏壇に祀り、春秋の彼岸時には墓に詣でて、先祖の守護を願うという伝統が日本人の心に強く根付いていますので、浄土宗信徒以外は、死んだ後は子孫を見守る霊になるのかもしれないと、漠然と考えているだけです。

日本人の心を養ってきた宗教には、聖なる神という人格的神は存在しません。人間の命の親である神の戒めを守れば幸いを得、神の戒めを破れば自分に不幸を招くから神が定めた戒めを重んじて生きるという考えは日本人には希薄です。神の聖性理解が強いほど聖なる神に背いた場合の罪責感も深まります。しかし、聖なる神を知らない日本人は神の前に罪意識を強く抱くことは少ないのです。神社神道での罪は神主のお祓いによって祓われてしまう軽いものです。

 平安時代中期の浄土教の僧侶、源信によって書かれた『往生要集』に極楽と地獄の教えがあるのですが、それが絵に表現されて恐ろしい地獄の様子が描かれているのですが、日本人一般には善を勧め悪を懲らしめる勧善懲悪の教えのために用いられる方便として考えられ、極楽・地獄は本当に存在するとは浄土宗信者以外の日本人はまじめに信じないのです。

 キリスト教はどのように死後の命について教えるのでしょうか?キリスト教伝道者パウロは、死んで肉体を脱ぎ人の霊魂は眠りにつくと教えます。そして、世の終末が来ると霊魂に霊のからだが与えられて甦ると教えます。自然界の例で言いますと、死は青虫がさなぎになるのと似ています。さなぎは冬の眠りから覚めると鮮やかな蝶となって空中をはばたきます。それと同じように、神を信じてその生涯をキリストの教えに従って生きた人は、世の終わりに眠りから覚めて霊のからだが与えられ、霊魂と霊のからだが一体となって、永遠にイエス・キリストが備えて下さった神の国で生きるのです。神の国において人は、個性を持ち、知性、感情、意思があり、愛する人との再会の喜びがあり、感謝・喜び・賛美に溢れ、心から主なる神を礼拝し、神に仕えていく幸福があると教えます。この教えはユダヤ教にも、ギリシャ宗教にもなく、仏教や日本の神道にも無い教えです。

 キリスト教はなぜ確信をもって、死者のよみがえりを語ることが出来るのでしょうか?それはイエス・キリストが歴史的事実として死より甦って、弟子たちに現れたからです。使徒パウロはコリント教会の信徒に宛てた手紙の中で、次のように語っています。「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目に甦ったこと、ケパに現れ、次に12人に現れた事である。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中には既に眠った者たちもいるが、大多数が今もなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に全ての使徒たちに現れ、そして最後に、月足らずに生まれたような私にも現れたのである。」(コリント第一の手紙15章3−8節)。

ブッタも、孔子も、マホメットも、死から甦ったという記録はありません。しかし、新約聖書のマタイ、ルカ、ヨハネ福音書は大きなスペースを割いて主イエスの死よりの甦りを語っているのです。復活した体は肉のからだではなく、霊のからだです。死よりよみがえられたキリストは、「わたしを信じる者は、わたしと同じような霊のからだによみがえる」と約束されたのです。

それでは、イエス・キリストを信じて甦る神の国とはどのような所なのでしょうか?弟子ヨハネがパトモス島において啓示を受けて書いた黙示録に見事に表現されています。黙示録21章1−4節を読みます。「わたしは新しい天と地とを見た。…また聖なる都、新しいエルサレムが、…神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた。“見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいと取って下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったからである。”」

現代の精神医学の発達や臨死体験者の多くの証しなどにより、死んだ後に世の終わりまで眠りにつくというキリスト教の理解は変わりつつあります。深い眠りに入ると時間は意識から消えますから、死んだのち世の終わりまでの時間がゼロになると考えれば、死後直ちに知性、感情、意思を持ったまま神の国にキリスト信者は導き入れられると解釈することも可能です。インドの霊的伝道者、サンダー・シング先生は1912年に深い瞑想の中で、霊眼が開かれ、天の霊界を見る恵みを与えられ、天使たちと語る体験をしました。またイエス・キリストご自身とも対話しているのです。

サンダー・シング先生がその体験から書いた書物、『天界のヴィジョン』の中に次のような記述があります。「わたしは、あらゆる方角から千の幾千倍という数の霊魂が、絶えず霊の世界に到着しているのを見た。すべての人に天の御使いが寄り添っていた。善人の霊魂は、死の床から導いてきた天の御使いと善霊だけを伴っている。悪霊たちは近づくことを許されず、遠くに立って眺めているのみである。わたしはまた真に悪しき者の霊魂には善霊が一人もついていないのを見た。死の床から寄り添ってきた悪霊たちがこれらの霊魂たちを闇に連れ去った。わたしはまた、霊の世界に入ったばかりの沢山の霊魂を見た。彼らには善霊と悪霊の両方、また天の御使いも寄り添っていた。だが、程なくして彼らの生涯の歴然たる違いが自ずと明らかになり、良い性格のものは善へ、悪しき者は悪へと彼らは二分された。(これはイエス様が話された“いと小さき者に愛を与えたか否かによって羊と山羊に分けられる譬と似ています。)

善なる霊魂、つまり光の子らが霊の世界に入ると、彼らは何よりも微細な空気―それは透き通った海の水のようである―に浴し、その中で力強い、生き生きした新生を体験する。この奇跡の水の中で、彼らはあたかも大気中にいるかのように自由に動き回る。水の下に沈んで溺れることはない。水は彼らを濡らすことなく、驚くべき方法で洗い、一新し、完全に浄化する。こうして、彼らは栄光の世界に入り、愛する主の御前に、また無数の聖徒たちと天の御使いとの交わりの中に永遠に留まるのである。」註@

「善なる霊魂、つまり光の子らが霊の世界に入ると、彼らは透き通った海の水のようなものの中に入れられ、その中で力強い、生き生きした新生を体験し、驚くべき方法で洗われ、一新され、完全に浄化される」という文章は、私にとっての大きな慰めであり、希望です。なぜなら完全な浄化からほど遠い現在の自分を知るからです。この麗しい神の霊界に迎え入れられる恵みは、イエス・キリストの十字架による贖罪死と復活を信じ、キリストの教えに従った者に与えられるのです。

悪しき人生を送った者たちの運命についてもサンダー・シング先生は語っています。「これと較べ、悪しき人生を送った者たちの霊魂の何と異なることであろう。彼らは、光の子らの仲間に不安を覚え、すべてを明らかにする栄光の光に苛まれて、不純な罪深き性質が見られない場所に自らを追いやろうとあがき求める。霊界の最も低い暗い部分からは、黒い異臭の漂う煙が立ち昇っている。光から自分を隠そうとするこの闇の子らは、その中へと自ら真っ逆さまに投げ落とし、そこからは自責と苦悶の絶叫が絶えず立ち昇って来るのが聞こえるのである。だが、誰かが何か特別な理由によって闇の霊たちの悪しき状態を見なくてはならないとき以外、天上の霊たちには煙も見えず、苦痛の絶叫も聞こえないよう、天はうまく整えられている。」註A

註@ サンダー・シング著「天界のヴィジョン」、『インド永遠の書』(林陽訳、徳間書店、1996年)、40−42頁。  註A 同掲書、42頁。 
なお文中、引用されている聖書の言葉は日本聖書協会の口語訳によるものです













 

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