神に選ばれたユダの裏切り
   
  



Message 59                                              斎藤剛毅

今回は、主イエスの弟子として選ばれたイスカリオテのユダの裏切りについて、考えたいと思います。ルカ福音書6章12節以下に、主イエスは祈るために山に行き、夜を徹して父なる神に祈り、夜が明けると弟子たちを呼び寄せて、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をお与えになったと書かれています。そして、12人の名前が続くのですが、12番目にイスカリオテのユダ、「このユダが裏切り者となったのである」と締めくくっています。

この記事から、主イエスの宣教によって、女性を含む弟子集団が既に形成されていたことが分かります。その中から、夜を徹して祈った結果、12人が使徒として選ばれたのです。福音書(イエス伝)を読み進んでいきますと、イスカリオテのユダの任務は会計担当で、イエス様から厚い信任を受けていたことが分かります。しかし、最後には主イエスを銀貨30枚で、ユダヤ人指導者たちに売り渡すという裏切りの罪を犯すのです。そのため、イエス様は不正な裁判で十字架刑を言い渡されるのですが、ユダは自分が行ったことに失望して首をつって自殺してしまいます。ユダの犯した罪の性質について、また彼の魂には救いの可能性があるのか、などについて考えたいと思います。

 最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちに衝撃の言葉を語ります。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。レオナルド・ダヴィンチの名画、「最後の晩餐」で12弟子たちが驚き心配して、次々に「主よ、わたしではないでしょう」と言い出す場面を見事に描いています。ユダも尋ねます、「わたしではないでしょう。」「いや、あなただ」とイエス様は答えます(マタイ福音書26章25節)。ルカ福音書は「わたしを裏切る者がわたしの食卓に手を置いている」とだけ書いて、この段階においてはユダの名前は書いていません。「そんな事をしようとしているのは誰であろうかと、互に論じ始めた」とだけ述べています。

 ヨハネ福音書では、イエス様の隣に座っていたヨハネがそっと「誰のことですか」と尋ねますと、「わたしが一切れのパンをひたして与える者がそれである」と答えて、ユダにお与えになります。すると、すぐに「サタンがユダに入った」(13:27)とあり、そのあとユダが出て行きますが、「時は夜であった」(13:30)と書かれているのです。これは闇の力が強力に動き始めたことを暗示します。福音書記者ヨハネは、イスカリオテのユダとサタン、悪魔との関係をマタイ、マルコ、ルカ以上に強く主張して書いています。ヨハネは6章70節以下で、「あなたがた12人を選んだのはわたしではなかったのか。それだのに、あなたがたのうちの一人は悪魔である。これはイスカリオテのユダをさして言われたのである。」と記述します。

 イエス様はなぜユダの裏切りのことを言われたのでしょうか。それはユダがすでに祭司長たちのところに行って、群衆のいない時にイエス様の居場所を教えて引き渡す約束をし、銀貨30枚を受け取っていたからです(マタイ26:15;マルコ14:10−11;ルカ22:3−6)。イエス様の予知の中で、ユダの裏切り行為が生じるのですが、ユダが大祭司と取引をする前に生じた「ナルドの香油事件」は、ユダの心を知る上でとても大切と思われますので、触れておきたいと思います。

 ユダヤの大切な祭り、過ぎ越しの祭りの六日前に、イエス様がベタニヤ村に行かれた時のことです。死の墓から甦る恵みにあずかったラザロの家で、姉マルタが夕食の接待をしていた時に、妹のマリヤが高価で純粋なナルドの香油の壺を持ってきて、イエス様の足に注ぎ、自分の髪の毛で香油を拭いたのです。香りが部屋中に広がります。ヨハネ福音書は次のように述べています。「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。“なぜ、この香油を300デナリに売って、貧しい人々のために施さなかったのか”」(12:1−6)と。

 私たちはこの記事の中に、マリヤのイエス様に対する心からの感謝の行為を見ます。自分の持っている大切な高価な香油を全て捧げる犠牲的愛と献身を見ます。このマリヤの信仰をユダは理解できなかったのです。ユダはマリヤの行為を浪費と判断して、マリヤを咎めるのです。ユダはマリヤのような形で愛と献身をイエス様に対してなされることを見たくなかったのです。プロテスタント最大の神学者、カール・バルト先生のユダに関する文章を紹介しましょう。「マリヤは献身を表わすならば、もっと実りあるもの、即ち貧しい人々、助けを必要としている人たちの益となり、その人たちの運命を改善する助けとなるような形で献身を表わすべきだと、ユダは考えていたのである。このような考え方の中でこそ、ユダは汚れているのだ。」註@ カール・バルト著、『イスカリオテのユダ』(吉永正義訳、新教出版社、1997年)、39−40頁。

 バルト先生は「ユダはイエス様に従っていたのだけれども、あくまで自分で決めてゆく自分を保留しつつ、イエス様に従っていたので、財布の中味をごまかす自由、すなわち自分自身の決断と自由を持ちたいと願っていた」と分析しているのです。(註A『同掲書』、41-42頁)。そして、自分を完全に明け渡して従うことが出来なかったことがユダの根本的罪だと指摘しているのです。

 「あなたがたの中で、わたしを裏切ろうとしている者がいる」とイエス様が言われた時、ユダも含めて全ての弟子たちが「わたしではないでしょうね」と腰を浮かせて尋ねたということは、絶対に自分ではないと断言できない不安を誰もが心に宿していたことを意味するのです。最後の晩餐の後に、ゲッセマネの園でイエス様が血のような汗を滴らせながら、父なる神に祈っておられた時に、「目を覚まして一緒に祈っていて欲しい」というイエス様の願いにもかかわらず、弟子たちは眠ってしまいます。その間にユダが大祭司の役人たちを引き連れて、松明で闇夜を照らしながらゲッセマネの園にやって来て、この人がイエスだと知らせ、裏切りの接吻をしてイエス様逮捕に協力します。弟子たちは眠りから覚めて、驚きあわて、夜陰に乗じて、愛する師イエスを見捨てて逃げ去る失態と臆病さをさらけ出してしまうのです。

 しかし、ユダを除く弟子たちは、復活なさったイエス様に出会い、罪を赦される喜びの中で、聖霊を受けて、神の無条件の愛を語る伝道者になるのですが、ユダの場合はどうだったのでしょうか?逮捕されたイエス様は、不当な裁判により、祭司長、祭司、律法学者たちから「イエスの言動は死罪に値する」と判断され、最もむごく残酷な十字架刑の執行を願って、彼らはローマから派遣されている総督ピラトのもとに引き渡してしまいます。

このことを知って、ユダは後悔し、イエス逮捕の協力褒賞金として受け取った銀貨30枚を、祭司長、長老たちのところに行って、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして罪を犯しました」と言って返したのですが、「それはわれわれの知ったことではない。自分で始末するがよい」と祭司長たちから言い返され、ユダは銀貨を聖所に投げ込んで出てゆき、首をつって死んだとあります(マタイ福音書27:1−5)。ユダはイエス様がゴルゴタの丘の上に立てられた十字架上にはりつけられてお亡くなりになる前に自殺したのです。復活なさったイエス様に出会うことなく死んだのです。

ユダと他の11人の弟子たちとの決定的違いはどこにあるのでしょうか?ここにもバルト先生に登場していただいて、私が深く教えられたことを紹介致しましょう。「福音書にとっては、ユダの人格が問題ではなく、ユダとイエス様との間で、もはや撤回できない形で起こったことが問題なのだ」とバルト先生は語るのです。「ユダの裏切り行為を通してイエス様を殺害するという目標に向けての運動が始まったということ、即ち弟子ユダが、その“梃子(てこ)に手を置いた”ということ、もはやどのような良い行為によっても償うことができない罪を犯してしまったのである」という記述に(註B『同掲書』、52-53頁)私は納得し、頷いたのです。

イエス様は最後の最後まで弟子たちを愛し通されました(ヨハネ福音書13:1)。そして、ユダも含めて弟子たちの足を洗い、謙遜の極みを手本として示されたのですが、時は既に遅し、ユダはイエス様を殺害する運動の初めである梃子(逮捕への協力)に手を置いてしまったのです。

それでは、ユダは救いようのない地獄に落ちてしまったのでしょうか?わたしはかつてカール・バルト先生の書物の中に、「ユダはイエス・キリストの十字架の左側に死んだ」という記述があったことを思いだして、『イスカリオテのユダ』(吉永正義訳)を取り出して、読み通して、問いに対する素晴らしい神学的説明を見出しました。第一に、ユダの裏切りは決して取り返しのつかない、結果的にはイエス様の十字架を生み出す初めとなってしまったけれども、イエス様が十字架に付けられて死ぬということは、神様の永遠のご計画の中で決定されていたことだった。第二に、イエス様が罪人たちに引き渡されたということは、イエス様の愛に基づく宣教の自由が奪われたということを意味するが、永遠なる神の御子が自分を低くされ、僕の形を取られ、人間と等しくなることをヨハネは“言は肉体となった”と表現しているが、御子ご自身が自分から自由を奪わせたこと、そこに引き渡しの根源的な根拠を持っていると、バルト先生は語るのです。すなわち、ユダの引き渡しの隠れた背後には、神ご自身による引き渡しの決意が既にあり、それゆえに、ユダの、ユダヤ世界の、罪深い人間世界のイエス殺しが進んでいったという説明です。バルト先生は「ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた」((註B『同掲書』、132頁)と語るのです。

第三に、ユダはイエス様を引き渡したゆえに生じた、イエス様の死による罪の贖いという神の業に奉仕した主に選ばれた弟子、十字架の左側に死んでいった罪深い弟子だったと説明されるのです。((註C『同掲書』、184−186頁)この説明は、ユダが地獄に落とされたという単純な説明よりも、遙かに深い洞察に基づく説明と思います。

今日、私自身の問いであり、また多くの人々から受けた問いに対して、バルト先生の神学的理解に助けられながら、問いに答えたのですが、このメッセージを読まれた方々は、どのように感じられたでしょうか?私たちは生涯をかけて主なる神様に問い続けることは赦されているのです。主なる神様に時には大胆に訴え祈り続けましょう。時が満ちた時、必ず主は応えて下さいます。













 

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