自分を捨て、自分の十字架を負うという意味
   
  



Message 58                                              斎藤剛毅

イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を
負うてわたしに従ってきなさい。」
(マタイによる福音書16章24節)

「わたしについてきたいと思うなら」という言葉に、弟子たちの自由意志を重んじるイエス様の気持ちが伝わってきます。イエス様は決して強制なさらない方です。イエス様はなぜ弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」と言われたのでしょうか? それは弟子たちに真実の自分を見出させるためでした。真実の自分を見出すために、なぜ自分を捨て、自分の十字架を負う必要があるのでしょうか? 一緒に考えてみましょう。
 
まず、「日本人はどのようなな自分なら捨ててしまいたいと考えるか」ということから考えてみましょう。「あの人は許せない!いつかひどい目に遭わせてやろう」と思うほどに憎しみや怒りで感情が高ぶっている自分、時には殺意を抱く自分、人の成功をねたむ自分、人を平気で裏切るような自分、平気で嘘を語って人を騙す自分、人の欠点を批判し、心で厳しく裁く自分だったらどうでしょうか。そんな自分は嫌いで、捨ててしまいたいと思うのではないでしょうか?

私たち日本人は人間関係の問題で考え、人に対して悪い感情を抱く自分に嫌気がさし、捨ててしまいたいと考える傾向があります。「そんな自分は捨てて従って来い」とイエス様が言われるなら分かると考える人は多いのです。でも欧米の人たちの考えは違います。自分が自分を捨てることなどは出来ないと考えます。その違いが聖書の訳に表れています。

日本語訳と外国語訳の違いを検討しましょう。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」と日本語で訳されているイエス様の言葉、「捨てる」は、日本のカトリック訳も、新共同訳も、新改訳も、個人訳も、皆歩調を合わせて「自分を捨てて」と訳しているのです。しかし、ラテン語、ドイツ語、英語の訳では、皆「自分を否定する」「拒絶する」「背後に置き去る」と訳しているのです。なぜでしょうか?ここに民族性の違いが現れているように思います。 

欧米人はイエス様に従ってゆくとき、どんな自分を否定し、拒絶し、背後に置き去るべきかを考えるのです。たとえばコリント人への手紙第一13章4−5節に従って、寛容ではない自分、情け容赦ない自分、ねたむ自分、誇り高ぶる自分、自分の利益だけを求める自分、いらだち、恨む自分、また人の欠点を批判し裁く自分、人を裏切り、嘘を言う自分。そのような自分は否定し、拒絶し、背後に置き去りなさいとイエス様は言われたと考えるのです。

 自分を否定するということは、肯定できる自分を目指すことを意味します。寛容で、情け深く、ねたむことをしない自分、誇り高ぶらない自分、自分の利益だけを求めず、いらだたず、恨みを抱かない自分、人の欠点、過ちを批判せず、裁かない自分、人に対して言葉でも、行いでも真実であろうとする自分、そういう自分を肯定し、受け入れ、その実現を目指すということなのです。

肯定できる自分を実現してゆくためには、先ずはっきりとNO!と否定し、拒絶し、背後に捨て去るべき自分を知りなさいとイエス様は言われたと考えるのです。すなわち自己中心で、愛が欠けていて、真実を裏切る自分を、まず知りなさいと言われたと理解するのです。そして、否定すべき自分がどういうものかを厳密に明らかにされねばならないという考えが、歴史の中で展開してゆきます。

ヨーロッパではキリスト教発展の長い歴史があります。自己を否定してゆく内容は、自己中心的な欲望や神の御旨に反する自分の欲望を抑えるという消極的自己否定と、自分の中に存在するあらゆる悪の欲望を徹底して絶ってゆく厳しい修行や苦行を伴う積極的自己否定がありました。積極的自己否定は修道院に受け継がれてゆき、世俗性の否定として清貧に甘んじる生活、情欲の否定として貞操と独身を守る生活、自我の否定としては神への生涯献身を修道院で過ごす生活という形をとってゆきます。

しかし、真実の自分を実現しようと努力する中で、問題が生じます。どのような問題が現実に生じるのでしょうか。それは、このようにあるべきだと考える理想の自分と、理想の自分をいつも裏切ってしまう現実の自分とのギャップを見出し葛藤で苦しむようになる問題です。理想を求める自分の意思に反して、現実の自分は相変わらず、人に厳しく、情が薄く、ねたみ、誇り、自分の利益だけを求め、いらだち、時には怒り、憎しみ、恨み、嘘もつく時がある。そういう現実の自分に悩むようになるのです。使徒パウロはローマの信徒に宛てた手紙7章の中で「善をしようとする意思は自分にあるが、欲していない悪を行っている」(18−19節)と語っています。

もうひとつの問題が生じます。自分が理想を追求し、自分が願う自分になろうと努力すればするほど、人にも自分の理想を押し付ける傾向が出てくるという問題です。自分自身が理想を実現できないのに、人に理想を期待してしまうこと自体おかしなことなのですが、そういうことが実際に多く起きているのです。そして、人々はその心の事実を知って戸惑い悩むのです。

私も体験してきたことですからお話をしましょう。私は結婚する以前に、私なりに伝道者の妻である人はこうあって欲しいという期待がありました。伝道者の妻として生涯を神様に献げて生きるという覚悟があって欲しい、開拓伝道に赴任すると信者が少ないから賛美歌を奏楽できる人であって欲しい、三度の食事を美味しく作れる人であって欲しい、私の字は下手なので私に代わって礼状を綺麗な字で書ける人であって欲しい等、四つの条件を満たしてくれる人を期待しました。大学の4年間祈り、卒業して東京から福岡の西南学院大学神学部に編入学し、幸いその条件を満たす人に出会い、神様のお導きで結婚したのですが、それ以上こうあって欲しいと願うことは欲が深いことだと分かっていたのに、私はこうあって欲しいという願いを妻に押し付けてしまう傾向がありました。

私は8人兄弟の家庭に育ちましたから、母は皆で使う鋏や爪切りは必ず決めた場所に戻すように躾けられましたから、鋏や爪切りは必ず使った後は元に戻すことが当たり前でした。ところが結婚して鋏や爪切り探しが始まったのです。その度に「どうして決めた場所に戻さないの?」と、私の言わなくても良い小言が出始めたのです。

歯を磨くときに昔は亜鉛で出来た歯磨きチュ−ブで中身を押し出して使うのですが、母は東京女子美術を卒業した人ですから美的感覚のあるおしゃれな服装で身を飾る女性でした。「歯磨きチュ−ブはあちこち押してデコボコにしてはいけません。下から巻き上げて綺麗に使いなさい」と教育されていましたから、兄弟皆その教えを実行していました。結婚して日が経つうちにチュ−ブが上から下までデコボコになり始めたから大変です。何とか下から巻き上げる方法に変えてもらえないかと妻に頼みますと、妻は「デコボコも造形美の一つではありませんか?出てくる中身は同じなのですから問題は無いでしょ」と言うのです。それには参りました。

私にとっては重要なのですが、妻にとってはそれほど重要ではないのです。それをくどくど要求すると、妻は逆に私から悩ませることになります。「愛があるなら聞き入れて欲しい」というと、「私のやり方を受け入れることも愛なのではありませんか」と言われると、相互相打ちです。そこで、私の愛が問われることになります。祈って神様から忍耐の力をいただき、時が経ちますと、有難いことにラミネ−トチュ−ブが発明されて、押して使ってもツルツルのままで決してデコボコにはならないのです。科学の力を通して神様は祈りに答えて下さり、私の悩みの一つが消えました。

私は自分の体験から学んだことは、結婚前には見えなかったのに、結婚してから見えるようになった私にとっての妻の欠点、それは厳然たる事実でした。歯磨きチュ−ブに関する欠点は妻の兄弟から見れば少しも欠点ではないのです。ですから、人間の持つ欠点というものは絶対的なものではなく、あくまで相対的なものです。でも、私がそれを受け入れられない欠点であるとみなし、それを無理に変えようとすれば角が立つのです。なぜなら、それは私の自己本位の要求だからです。

妻の欠点と思われる行為を、ありのまま受け入れることが愛なのですが、私にとって受け入れることは心の闘いであり、心に十字架を負うことになったのです。そして、葛藤の中で、イエス・キリストの十字架を仰ぎ、妻の欠点をも含むありのままを受け入れる愛と寛容を求めますと、祈りを通して愛が与えられたのです。受け入れる愛の心が大きくなり継続しますと、妻を批判し、裁く心に勝つことになります。

私はイエス様が「自分を否定し、十字架を負って従って来なさい」という意味を結婚生活の体験から分からせていただいたのです。歯磨きチュ−ブは一例に過ぎません。結婚51年の間にまだまだ沢山葛藤がありました。電話で大切なことをメモ用紙に書いていたものが、妻が電話で話している間に、大切なメモと知らず、文字が一字一字黒くタドンのように塗りつぶす癖があることも発見しました。これは赦せる範囲内ですが、時には口喧嘩をしてどうにも腹が立ってしょうがないことがありましたが、「憤ったまま、日が暮れるようであってはならない」(エペソ4:26)と教えられていますから、怒り、憤りを退け、赦しの愛と寛容が与えられるように祈りますと、不思議に怒ったままで怒りを翌日に持ち越すことは無かったのです。祈りは聴かれます。

 今日は「自己否定と十字架」という題で説教させていただいています。イエス様の教えに従って、自分がこうありたいと願っても、理想と現実の間にギャップがあることをお話しました。理想を実現できない自分であり、同じように理想を実現できない妻や子供たち、多くの人々がいることも同じです。いやな自分を否定し、拒絶しても、理想の自分が現れてくるわけではありません。そうなると、真実の自分の実現は単なる自己否定の努力からは生まれないことが分かります。理想を求めながら理想とかけ離れた現実の自分に悩みながら、また人の現実に悩みながら、そんな自分も他の人々を受け入れ赦そうとするところに「十字架を負う」ということが生まれることを知りました。自分の十字架を負いながら祈るとき、イエス・キリストの十字架を通して、自分を、また人を受け入れる力が与えられることが体験により教えられたのです。

 イエス・キリストの父なる神様は、否定しなければならないものを一杯持っている私を赦し、受け入れてくださるのは、イエス様が私たち人間の魂の根っこにあるドロドロとした自分の力ではどうしても解決することができない罪の力を、わが身に受けて十字架で解決してくださったからだと知りました。

 父なる神様が私たち人間をお造りになった本来の人間になるように求めておられることには変わりはありません。でも私たちには不可能です。その不可能なことをイエス様はご自身が十字架を負うということにより可能としてくださいました。イエス様は復活なさり、信じる者に聖霊という素晴らしい神様からのプレゼントを与えて下さることによって造られた本来の真実の自分に近づくことを可能として下さったのです。

 信仰とはイエス・キリストの十字架において、父なる神様に赦され、受け入れられている自分を見出すことです。その赦しの愛を感謝して受け入れ、信じつつ自分を受け入れ続け、人をも赦し、受け入れ続けることを通して真実の自分に近づいてゆくのです。













 

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