スリヤの将軍ナアマンに求められた謙遜と信仰
(列王紀下51~14   
  



Message 57                                              斎藤剛毅

今から2,860年ほど前のことであります。イスラエルの北方にあった国スリヤ(新共同訳聖書ではアラムと訳されています)の首都ダマスコの王宮に住む王様と、王に仕えていた軍司令長官、ナアマン将軍が話をしておりました。「王様、私が長い間、皮膚病で苦しんできたことはご存知です。ダマスコの町どこを捜しても私の病気を癒してくれる医者はおりません。ところがイスラエルの地から捕虜として連れ帰った者たちの中に一人の少女がおりまして、私の妻に仕えているのですが、彼女がサマリヤの預言者エリシャならば、必ず私の病気を癒すことが出来ると申すのでございます。私はイスラエルを訪ねて、預言者エリシャに会うべきかどうか迷っております」とナアマン将軍が語ったのです。

 

ナアマン将軍は数々の戦争で勝利をもたらした大勇士であり、王様から重んじられていましたが、悲しいことに重い皮膚病に悩まされていたのです。悩ましい病から自由にされたいと思う心はどの時代の人も同じです。将軍が王様にそのことを話しますと、「是非行くがよい。私がイスラエル王に手紙を書こう」と王のお許しを受け、ナアマン将軍は王様からイスラエル王宛の手紙を頂いて、預言者エリシャとの出会いと癒しに期待を膨らませながら北イスラエル王国の首都サマリヤに向かったのです。

 

預言者エリシャから丁重に迎えられ、時間をかけて神秘的な癒しの祈りが行われてゆくさまを思い浮べて礼服を整え、癒された時に渡す充分な礼金を準備して旅の目的地サマリヤに着きました。王様に迎えられてスリヤの王からの手紙を渡しますと、イスラエル王は不治の病を癒せという難題を突きつけ、癒されない時には攻撃をしかける言いがかりがスリヤ王のねらいだと判断して、大変困惑し、警戒心を強めたのです。そのことを聞いた預言者エリシャは使者を遣わして「私のところにその男をよこして下さい。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言わせます。新共同訳では「ナウマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来た」とありますから、ナアマン将軍はスリヤ王国の大勇士であり、偉大な将軍であることを人々に見せ付けるために戦車に乗ったことが想像されます。ナアマン将軍は自尊心の強い人だったのです。

 

預言者エリシャの丁重な歓迎を受けるものと信じていたナアマン将軍の意に反してエリシャは姿を見せず、僕だけが現れて「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば皮膚病は癒されるでしょう。」という言葉だけを伝えたのです。その時に見せたナアマン将軍の態度は私たちにも良く理解できます。将軍として丁重に扱われなかったことにすっかり腹を立て、それ以上に理解できなかったのは、ダマスコの美しい川アバナとパルパル川で体を洗い清めるなら分かるけれども、ダマスコの川と較べて少しも清い川と思われないヨルダン川に入り、預言者エリシャの厳かな祈りや指導も無しに、「一人で回身を洗いなさい」という簡単な命令だけが伝えられたのですから、ナアマン将軍はプライドを深く傷つけられて憤慨し、スリヤへと引き返して行ったのです。

 

その時に語ったナアマン将軍の言葉は、新共同訳の方がその気持ちを良く表しています。「エリシャが自ら出て来て私の前に立ち、彼の神、主の御名を呼んで、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れよりもダマスコの川アバナやパルパルの方が勝るではないか。私はこれらの川で身を洗って清まることが出来ないのであろうか。」その当時ダマスコは世界で一番美しい町と言われていました。ダマスコに流れる二つの川も美しく、それらと比較すればヨルダン川は決してきれいとは言えませんでした。身を清めるならばダマスコの川でと考えても不思議ではありません。私たちが医院に行って、もし医者が診察もせず看護師を通して「こうすれば癒される」と語ったとすれば、私たちも常識に反する取り扱いを受けるのですから怒りを発するはずです。自分の期待が裏切られること、自分の誇り、プライドが傷つけられたという思いは、ナアマン将軍も私たちも同じです。将軍に生じた思いは当然のことでした。

 

イスラエルの預言者イザヤは、神様の民に対する言葉を次のように語っています。「わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なる」(イザヤ書55章8節)と。ナアマン将軍はエリシャを通してなされる神の方法を知らず、自分の考えている基準に従って事が運ぶことを期待していましたので、思いとおりに事が運ばず、エリシャに腹を立てたのです。

 

私たちが神の聖い霊を受けて清められ救われるのに、この世の名誉、地位、財産、業績、学歴などは必要としません。神様が約束される言葉を信じて、行動することだけが必要なのです。「イエス・キリストの十字架の死によって、あなたの罪があがなわれ、赦されました。それを信じて、約束されている賜物として与えられる聖霊を受けなさい。その時、あなたの魂は清められ、救われて神の子となります。」と新約聖書は語るのです。イエス様の弟子たちも、使徒パウロも同じ恵みの言葉(福音)を語りました。それを信じて、聖霊を受けるのに多額の金銭は必要ではありません。

 

救いを得るのに、この世の名誉、地位、財産、業績、学歴などは必要条件ではないのです。必要なのは素直に信じる心、謙遜な心、感謝する心です。神の恵みは全ての人に平等に与えられるのです。しかし、それを不服とし、神様の恵みを買い取ろうとする人は聖霊を受けることは出来ません。ラクダが針の穴を通るよりも難しいとイエス様は語られました。(ルカによる福音書1825)

 

賢い忠僕はナアマン将軍をなだめて、「預言者エリシャは将軍に難題を吹きかけたのでも、不当な金額を要求したのでもなく、『ヨルダン川で回身を洗って清くなれ』と言われただけのことではありませんか。丁重なもてなしは溢れるほどダマスコでお受けになっておられます。病を癒すのは金銀でもなく、人の祈りそのものでもなく、神ご自身のはずです。エリシャはただ、神の言葉を信じて、従うことだけを求めておられるのではないですか。ナアマン様、どうかエリシャの言葉を神様からの言葉と信じて、言われた通りにしてください。」と語ったことが行間から読み取れます。 

 

よくよく考えてみれば僕の言う通りなのです。ナアマン将軍は反省して、再びイスラエルに戻ります。ナアマンは自分のプライドを捨て、自分の名誉、自尊心などにこだわっていたことを反省して、唯一人の病める弱い人間として、神の前に無力な罪深い人間として、裸になりヨルダン川に入っていったのです。岸から川へ、川から岸へ、七回繰り返し身を洗いますと、将軍の皮膚が幼な子のように柔らかくなり、重い皮膚病がすっかり癒されたのです。

 

新約聖書の福音書に生まれながらの盲人が登場します。イエス様が地に唾をはき、泥を作り、それを目に塗って、「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と言われました。そんなことで目が見えるようにはならないと思うのは常識です。しかし彼はイエス様の言葉を信じて従ったのです。そして視力を回復しました。エジプトを脱出したイスラエルの人々は荒野でつぶやき、毒蛇にかまれて苦しみました。モーセは神の命令により、青銅の蛇を作りそれを高く掲げ、「それを仰ぎ見るものは死なない」と語りました。信じて仰ぎ見た者は死より救われ、信じなかった者は死にました。

 

私たちの魂は罪という死に至る病気をもっています。魂の病気を癒すために、天地の造り主、父なる神は御子キリストをこの世に遣わし、十字架の死をもって人類の罪を贖う恵みの御業をなされたのです。イエス様は十字架の木の上に、モーゼの時の青銅の蛇のように上げられました。十字架の主を仰ぎ見、罪のあがないと赦しとを信じる人は、罪の価・結果としての死と滅びから救われると聖書は語ります。それは神からの福音として語られています。あなたの周りには福音を信じ、救いを証しする人々が多く存在します。あなたも神の約束への応答が求められています。

 

時には「信じるだけで救われる」という言葉は余りにも安易すぎて、かえって信じ難いものと思われます。しかし、十字架上で血を流されたキリストを、罪からの開放を可能として下さる救い主と信じるかどうかが問われているのです。十字架を仰ぎつつ、悔い改めを重ねつつ、聖霊によって魂が清められることを信じて生き抜き、永遠の命の約束をお受けになりませんか。













 

inserted by FC2 system