神は創造なさった天を良しとされなかった
   
  



Message 56                                              斎藤剛毅

 神はまた言われた、「水の間に大空があって、水と水を分けよ」。そのようになった。神は大空を造って、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。神は大空を天と 名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。(創世記1:6−8)

  旧約聖書の第一巻、創世記の第一章一節には、「初めに神が天と地とを創造されたとあります。今から凡そ160億年まえに「ビッグバン」と呼ばれる大爆発によって宇宙が始まったことが、イギリスの天才的宇宙物理学者、ホーキング博士とペンロース博士によって証明され、現在の天文学者の常識となりました。宇宙の歴史は160億年前に神が天と地、即ち宇宙を創造された時から始まったと読めば、一節の言葉は現代でも納得できる事柄となり、創世記は単なる神話ではなくなります。

 天文学者たちは、ビッグバンによって宇宙に散ったガスと塵の雲から150億年前には何十億の色々な形の星団が宇宙間に生まれたと説明します。銀河星団の中の現在の太陽系空間に在った塵とガスが集まって回転し始め、回転が速くなって中心部の温度が上昇し、核融合により新しい星、太陽が光を放った時が、神が「光あれ」と言われた時だとクリスチャン天文学者は解釈するのです。太陽の光が届かない所は闇なので、「神は光と闇とを分けられた」(4節)と書かれていると解釈できるのです。3節と4節は銀河系星団の中に太陽系が誕生したことを意味するという解釈が、ホーキング博士らの研究によって可能となったとも言えるのです。

  さて、6節から8節に「神は大空を造って、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。神は大空を天と名づけられた」とあります。不思議なことに、他の日の創造に関しては神が良しとされているのですが、この二日目の神による創造の業の後に、「神は見て良しとされた」という言葉が無いのです。「大空の下の水」とは、地上の海、湖、川とそこから蒸発する水蒸気を意味し、「大空の上の水」とは上昇した水蒸気が冷えて空に生じる雲と雨を意味するのですが、旧約聖書の創世記が書かれた時代には現代のような科学的解釈は存在しません。ですから、後のユダヤ教の学者たちは、この天と名づけられた大空が良しと神によって言われなかったのは、人間が住む地上に接する天の空間こそ、神に背いて堕落した天使たちが働く霊的空間となったからに違いないと考えたのです。

 このような理解をエペソ人への手紙を書いた筆者が受け継いでいたことは、2章の1−6節の中で、サタン、悪魔を「空中の権をもつ君」、共同訳では「かの空中に勢力を持つ者」と述べているので明らかです。また6章10−12節には、「天上にいる悪の霊に対する戦い」、共同訳では「天にいる悪の諸霊を相手にする戦い」と表現されていますので、悪魔やその支配下にある悪霊たちは天と言う空間に存在して人間に働きかけると、使徒パウロの時代にも考えられていたことが分かるのです。註@

 さて、この悪魔と呼ばれる悪霊が最初に姿を現わすのは創世記の第3章なのです。神が御自分に似せて創造し、エデンの園に住まわされた男と女は、園の中の善悪の知識の木から実を取って食べてはならないと固く命じられました。「とって食べれば必ず死ぬであろう」という絶対命令を受けていたのです。これは園の中での唯一の禁止命令でした。「善悪の知識の木」は何を意味するのでしょう?神に造られた有限な存在として、人間が決して越えてはならない神の神聖な領域を意味するのです。「善悪の知識の木」の実を取って食べることは神の主権・領域を侵すことを意味するのです。男と女は神の主権を認め、神の戒めに従うという基盤の上でこそ、園の動物、植物を治め支配し、物質・自然界における祝福を受けることが出来たのです。
 
 創世記3章に、悪魔を象徴する狡猾な蛇が登場して、まず女を誘惑します。そして「善悪の知識の木の実を取って食べてはならないと本当に言われたのですか?」と尋ねます。悪魔は神の権威に立ち向かい、背いた反逆者ですから、この質問により神の絶対命令に疑いを持たせようとします。これは絶対命令を相対化する誘惑です。女は答えます。「これを取って食べると死んではいけないからと言われました」。神の「必ず死ぬ」という命令が、「死んではいけないから」という弱い表現に変化しており、女の意識に中では神の絶対命令は断固守らなければいけないという固い決意は消えているのです。そして、女の中に「食べても死なないかもしれない」という思いが生じ始めるのです。そこで悪魔は絶対的表現で語るのです。「あなたは決して死ぬことはないでしょう」(3章4節)。これは神の絶対命令を絶対的響きをもって否定する言葉なのです。

 悪魔は更に神の絶対命令に背かせる理屈を女に語ります。「あなたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」悪魔は神の主権を犯し、神の権威に逆らい、空中の領域に自分の支配権を確立し、そこに自らを神とし、自己を絶対化する暗闇の主権者となっていたのです。悪魔は誠に狡猾な誘惑者として女の前に現われたのです。女は誘惑に負けて、神の命令に背きました。女の誘いに男も負けて、二人は神の命令に背きました。

男と女を死から守ろうとする神の愛の命令に背くことにより、男と女は神に服従する生き方を自ら崩し、その背きから自分が犯した罪の責任を、他者に転嫁して自己弁護する罪が生まれます。女は自分を欺いた蛇が悪いと言い、男は誘惑に負けた後に自分に食べさせた女が悪いと言うのです。「自分は悪くない。自分を誘惑したあの人が悪いのだ」という責任転嫁の罪は人類の中に普遍的に見られるものです。

 神によって創造された、有限で相対的な人間が、自分が神と対等に正邪、善悪を論じられるかのような傲慢な錯覚に陥り、神の命令を受けても、自分にとって都合が良ければ従うが、悪ければ従わないという理屈をつけるようになります。従う時もあるし、従わない時もある。信じるときもあるが、信じない時もある。人間は神中心の生き方から、自己中心の生き方へと転落してしまうのです。人間は知識を積み重ねて、理屈をつけて、自己中心の善悪の判断基準を作り、神の絶対基準を無視して、神に背き続けて生きるようになったと旧約聖書の創世記は語るのです。

 その結果、神は男と女に言われました。「見よ、人はわれわれの一人のようになり、善悪を知る者となった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」。そして、男と女を楽園から追放してしまうのです(創世記3:22−23)。すなわち、楽園喪失です。「取って食べたら必ず死ぬ」と神が言われたのに、男と女は生きています。何故でしょう?ここで語られている「死」とは肉体的な死を意味するのではありません。園から追放されて、神から遠ざけられ、神と共にいる祝福を失ったのです。これが霊的な死を意味するのです。男と女が愛によって結ばれ、夫婦となった後に、そのどちらかが相手の信頼を裏切って他の異性と関係を結ぶ罪を犯したならば、それまで存在した愛と信頼関係は崩れて、心は離れて遠ざかってしまうように、人間は神の愛と信頼を裏切ることによって、神から遠ざけられて、以前の神との親しい関係を自ら失ってしまったのです。楽園追放は自ら蒔いた種を刈り取ったことなのです。

 預言者イザヤは、「あなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神とに間を隔てたのだ」(59章2節)と語ります。神の信頼を失い、神との間に距離を作ってしまったアダムは一生苦労して土を耕す者となり、エバは産みの苦しみが大きくされてカインとアベルを生みました。二人は成長して、やがて兄のカインは弟のアベルを嫉妬により殺してしまうという大罪を犯し、地上の放浪者となる悲劇が、創世記4章で描かれます。それ以降の人間は神が目を覆うほどに罪深い存在になり、創造したことを悔いた神は、ノアの家族を除いて、全て人類を大洪水によって滅びしてしまったと創世記は語ります。

 腐った肉は毒を含み、悪臭を放ち、伝染するばい菌を宿します。ノアの時代の人々は、神の目から見れば、腐った肉のように堕落してしまったのです。それゆえに神は、創造した人間を地のおもてから拭い去ろうと決心されたのです。水は洗い清めることを象徴します。洪水は人間によって汚されてしまった大地を清めることを意味します。それは創造主なる神のご自由においてなされることであり、人間は自ら犯した罪に対して黙って神の怒りのもとに滅びる以外なかったのです。

 神による人間への大手術の後に、人間の未来に希望が与えられます。未来の希望とは何でしょう?それはノアとその家族の選びであり、その子孫の繁栄なのです。彼らは滅びから救い出されるために、巨大な箱舟つくりを命じられます。ノアは正しい人ではありましたが、罪を犯したことが無いという人ではありませんでした。神様の前に恵みを得た人だったのです。6章8節には、「ノアは主の前に恵みを得た」とあります。ノアは神様に命じられたとおりに、人々の嘲笑を受けながら、黙々と箱舟つくりに精を出します。そして、箱舟がノアと彼の家族、そして動植物を救ったのです。

現代の箱舟とは何でしょうか?それはキリストの救いを信じ、その教えにしっかりと留まって、礼拝を守り続ける教会です。それが神様から私たちに命令されている箱舟つくりなのです。私たちは少しでも多くの人々が箱舟の中に入り、救われるように働きかけねばなりません。箱舟の中にと留まる人々の心には,全てを神様に委ねる平安があります。しかし、ノアの時と同じように、多くの人々は教会の教えには無関心で、キリストの復活は馬鹿げた話と嘲笑します。

私たちは神の箱舟の中に留まり続け、福音を語り続け、神様の御心を行って、いつ終末的悲劇が地上に訪れても決して滅亡しない、主の救いを信じ、希望と愛に生きることが期待されているのです。

註@『新共同訳 新約聖書注解II』(エフェソの信徒への手紙)日基教団出版局、1,999年、218頁参照。
メッセージの中の聖書の言葉は日本聖書協会口語訳に基づいています。

 













 

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