使徒パウロから学ぶ新年の祈り
   
  



Message 54                                              斎藤剛毅

エペソ人への手紙1章16−19節を読み、使徒パウロから新年における祈りを学びましょう。「私の祈りのたび毎にあなたがたを覚えて、絶えず感謝している、どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されて抱いている望みがどんなものであるか、聖徒たちがたちが継ぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神に力強い活動によって働く力が、私たち信じる者とって如何に絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」

私たちは誰に祈るのか。祈りの対象は「主イエス・キリストの神、栄光の父」であると使徒パウロは語ります。
イングランドの詩人、ウィリアム・ブレークは、元日の朝、海岸に立って海の水平線の彼方から日が昇るのを眺めていました。空も海も屈折光線で輝いています。太陽が今にも水平線から姿を現そうとしていました。やがて空が黄金色の輝きに変った時、ブレークは傍に立っていた人に日の出を指差して言いました、「すばらしい眺めですね。あなたはあの太陽をどうご覧になりますか?」男は答えました、「まるで黄金の金貨のようですね。あなたはどうですか?」ブレークは答えました、「私は神の栄光を見ます。そして、おびただしい天の軍勢が“聖なるかな、聖なるかな、万軍の主”と賛美しているように見えます」。神の栄光を表現する素晴らしい言葉だと思います

 栄光という言葉は、旧約聖書ではヘブル語の「カーボード」で、199回用いられており、神の尊厳性、超越性、完全性などを表すのですが、神は人格を持っておられるので、神の愛、恵み、力、正義、聖などが含まれた重い言葉として用いられています。

新約聖書では栄光は「ドクサ」というギリシャ語で約150回用いられておりますが、旧約聖書の「カーボード」の意味を受け継いでおり、神の栄光の意味が更に明確になっています。ヘブル人への手紙1章3節に「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉によって万物を保っておられる。そして、罪のきよめの業を成し終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」とあります。これは実に見事な表現です。御子イエス・キリストは神の栄光の輝きそのもの、神の本質の真の姿だと言うのです。

エペソ人への手紙1章11−12節の中で、パウロは私たちが神の民として選ばれたのは、キリストに望みをおいて、「神の栄光をほめたたえる者となるためである」と述べています。また1章13−14節に、「あなたがたはキリストを信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。この聖霊は、私たちが神の国を継ぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」と語り、神の栄光をほめたたえるという言葉が二度も使われているのです。更に、1章18節で「聖徒たち(クリスチャン)がつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、…あなたがたが知るに至るように祈っている」と述べて、私たちが死後に迎え入れられる神の国が栄光に富んでいることも語っているのです。サタン・悪魔が全く介入できない天上の霊界が栄光に富んでいることは当然です。

 私たちは、祈りの内容をはっきりと使徒パウロから教えられていることを知るのです。1章16節にパウロは私たちが「智慧と啓示の霊を神様からいただいて、心の目が開かれて、神を明白に認識できるように」祈ると語ります。私たちは既に聖霊の証印を押された者たちです。心の目が開かれて、父なる神様を明白に認識し、信じ、告白し、バプテスマを受けて、神の国を継ぐことが保証されています。ですから、信仰者として生きる者とされたことを感謝し、神をほめたたえるのです。

しかし、私たちは罪の宿る肉体をもって罪と悪に闘いながら地上に生きています。死ぬまでサタン・悪魔の誘惑が続きますから、私たちの内に宿るイエス・キリストの御霊を悲しませることなく、悪から遠ざかり、イエス・キリストの勝利の力を常に受けて誘惑に勝利できるように祈り続けなければならないのです。勝利する限り感謝と賛美が心から溢れ出て、神をほめたたえる祈りが強められます。また、イエス様が聖書の言葉を用いてサタンの試みに勝利されたように、私たちも怠ることなく日々聖書を開き、読み、心に貯え、より深く神様を知ることが出来ますようにという祈りを捧げる大切さを新年になって改めて教えられます。

神の国に甦って与えられる霊の体は全く罪が宿っていませんから、栄光に富んだ神の国で神の栄光を純粋にほめたたえることが出来るのです。これはクリ                
スチャンに約束されている希望です。復活の希望、罪が全くあがなわれた者として霊の体が与えられる希望。この希望が与えられていることを神に感謝するのです。

使徒パウロは、コリント人への第二の手紙3章18節に、「私たちは主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」と語っています。私たちが主と同じ姿に変えてゆくことをイエス様は強く望んでおられるとパウロは語ります。

使徒パウロは生前のイエス様にお会いしたことは無いのですが、主の御足の跡に従い、主と同じ姿に変えられたいと強く願った人でした。そして、御国に甦りたいと切望したのです。ピリピ人への手紙3章10−11節の中で、「キリストと復活の力を知り、その苦難にあずかって、その死の様に等しくなり、何とかして死人のうちからの復活に達したいのである」と語ります。パウロはイエス様が数々の苦難を体験されたように、自分も苦難にあずかって、十字架の死をも辞さないと語っているのです。このパウロの精神に預かりたいものです。

主と同じ姿に変えられていくことの中に、イエス様のように積極的に出て行って宣教することが含まれていました。テサロニケ人への第一の手紙2章9節に「あなたがたの誰にも負担をかけまいと思って、日夜働きながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた」と述べていますように、パウロは信徒の献金に依存することなく、天幕作りの内職をしながら自らの生活を支える自給伝道精神を貫きました。

私も信徒の献金に依存することなく福音を宣べ伝えることが理想でありました。2001年4月から9人の兄弟姉妹たちと共に、筑紫野市原田地域に開拓伝道を開始し、ボランティア牧師として11年間福音宣教に従事できたことは本当に感謝でありました。また、教会員の中から信徒説教者が起こされ、無償で福音を人々に語る喜びを共有できますことは大きな感謝です。聖歌隊指揮者が与えられ、奏楽者が与えられ、神への賛美が大きく会堂に響くことを主が喜び、祝福して下さっていることを感じます。

1994年以来3度も心臓の大きな手術を受けながら、詩篇118編17−18節にありますように、「私は死ぬことなく生きながらえて、主の御業を物語るであろう。主はいたく私を懲らしめられたが、死には渡されなかった」という言葉                                  
が私に実現していますことも感謝です。今後どのような艱難・苦難が待っていようとも、神の栄光のために、皆様と一緒に粘り強く祈り、力を合わせる一年であることを願っています。

          

 













 

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