神はなぜ人となれたのか?
   
  



Message 52                                              斎藤剛毅

聖書の言葉
初めに言があった。言は神と共あった。言は神であった。…この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。そして、闇は光に勝たなかった。…言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。(ヨハネによる福音書1章1,4−5、14節)
 
 イエス・キリストの弟子、ヨハネは福音書1章1節の中で「初めに言があった。言は神と共あった。言は神であった」と述べています。そして更に14節で「言は肉体となった」、すなわち神は人間となられたと語っています。新約聖書は人間としてお生まれになった全知全能の神様をイエス・キリストと呼びます。神様がこの世にキリストとして誕生されたことを祝う祭りがクリスマス(Christ-mas)です。

 なぜ天地万物の創造者である神様が人間となられたのでしょうか?人間となる必要は何であったのでしょうか?その問いに答えるために、王様と一人の大臣のお話をしましょう。
昔ある国の大臣がイスラエルに旅をして、キリストの話を聞き、新約聖書を読むようになり、クリスチャンになって帰りました。国に帰ると多くの人々に自分はクリスチャンになったことを告白しました。彼は王様にも、罪深い人間を救うために、神様は人間となり、十字架に付けられて死に、人間の罪を贖われたことを話しました。
 その話を聞いて王様は大臣に尋ねました。「私はこの国の王様じゃ。私は国の人々を救ってやることが出来る。家来を遣わして苦しむ者を助けることが出来る。医者を遣わして病人を癒すことも出来る。王の王なる天の神様には大勢の天使がお仕えしているとお前は言うが、人間を救うために何故神ご自身が人間になる必要があるのか?天使を遣わして人々を救わせればよいではないか。」と。大臣は答えに困って一週間の猶予を乞いました。

 一週間が経って、王様は大臣を連れて船に乗り、川下りをしたのです。船の中で大臣に言いました。「約束の一週間が経った。お前の答えが聞きたい。」「はい、もうすぐお答え致します」と大臣は答えました。船が川岸に近づいて行きました。大臣は王様に言いました。「ご覧ください、王様。王子様が付き添いの者の腕に抱かれて、王様のお帰りを待っておられます。」「おお、確かに王子じゃ。いとしい子よ!」その時、付き添いの者が王子を川に落としてしまったのです。王子はぶくぶくと沈んでゆき、いかにも苦しそうです。「何ということをする!」王様は上着を脱ぐと川に飛び込みました。王子をしっかりと腕に抱えると夢中で岸に泳ぎ着きました。

 ふと気づきますと、それは王子そっくりの人形でした。その時、大臣は尋ねました。「王様、私に命じて下されば、私が王様に代わって川に飛び込みました。何故自ら飛び込んだのですか?」「それは…王子を愛しているからじゃ!」「王様、それが私の答えでございます。私たち人間をお造りになった父なる神様は、私たち人間をとても愛しておられるゆえに、人間が罪の力に縛られ、誘惑におぼれ、霊的に滅びてしまうのを悲しんで、何とかしてご自分で助けようと自ら人となり、この世に来られたのでございます。その人となられた神様をイエス・キリスト様と呼ぶのでございます。王様は王子様を愛するゆえに川に飛び込んでお救いになろうとなさったように、神様は天使たちに命じることなく、自ら人となり、人間を救われたのでございます。王様に分かっていただこうとして、優れた人形作りに頼んで王子様にそっくりな人形を作らせました。このようなことを致しました無礼をどうかお許しください。」「うーん、なるほど。人間をお造りになった神様はそんなに私たち人間を愛しておられるのか。」王様は深く感じるところがあり、大臣を許して、王様自身が聖書を読むようになったというお話です。

 この話は、神様が人間になられたのは、暗黒の霊の支配を受けて、悪を行い続け、永遠の滅びに陥る人間を救うため、神様の王国、聖にして義、愛と慈しみに満ちている光の霊界に導き入れためであったと語っているのです。

 もう一つの話を致しましょう。かつてアメリカでソフトな甘い歌声で多くの人々を魅了した歌手、パット・ブーンの話です。彼は歌手として人気が高まり、収入が多くなり、プール付きの豪邸に住むようになったのですが、富むにつれて家族関係がぎくしゃくし始め、妻との関係も悪化し、苦しみ悩んでいました。

ある日、プールで泳いでいました時、一匹の蠅が飛んできて、どういうわけか目の前に落ちて、必死に飛び立とうとしながら、もがいているのを見て、「この蠅は今の自分のようだなあ」と思いながら手のひらで掬い挙げてプールサイドにそっと置いて眺めていました。蠅はしばらく羽を太陽の光で温めていましたが、羽が乾くと飛び立ちました。パット・ブーンは思わず声を蠅にかけたのです。「おい、蠅よ、一言ぐらいお礼の言葉を言えよ!」そんなことを言っても、彼の思いは蠅に通じるはずはありません。

 その時、はっと気づいたのです。蠅に人間の言葉を理解させるためには、蠅になって声をかけるしかない。人知を遥かに超えた偉大な神、天地創造の神様は、ご自分のお気持ちを人間に知らせるためには、人間となって生まれるしかなかったのだ。人間となって人間に真実のあるべき生き方を語って下さったのだ。人となられた神、それがイエス・キリストだ。そう思うと、神様からの人間への語りかけの書である聖書を読み始め、人間を創造された父なる神様の愛を知り、心が喜びで満たされました。彼は妻を誘って教会に出かけ、二人は神様に合された互に大切な連れ合いであることを悟り、夫婦愛を回復しました。今度は子供たちを教会に導き、皆が互に神様の愛の中で愛しいたわり合う素晴らしい家族になったのです。

 この二つの話から教えられますことは、神様が人となられたのは、人間を滅びから救い、神の王国に導きいれる道を開くためであったということです。動機は深い愛です。深い深い神様の愛が私たちに注がれているのです。

次に聖書の言葉、ヨハネによる福音書1章9−12節を考えましょう。
すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
                  
まことの光なる神が人間となられ、この世に姿をお現しになった第三の動機・目的は、全ての人を神の光の中に招き入れて、「光の子」とするためであります。主イエスの弟子ペテロは、「神は暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった」(ペテロ第一の手紙2章9節)と語り、弟子ヨハネも「神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩むならば、わたしたちは互いに交わりを持ち、そして御子イエスの血が全ての罪から、わたしたちをきよめるのである。」(ヨハネ第一の手紙1章7節)と述べました。更に使徒パウロも「あなたがたは以前は闇であったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実の実を結ばせるものである。」(エペソ人への手紙5章8−9節)と書いています。

使徒パウロがギリシャ・ローマ世界への宣教者として選ばれた時、次のようなキリストの召命の言葉を聴きました。「わたしはこの国民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らに遣わすが、それは彼らの目を開き、彼らを闇から光へ、悪魔の支配から神のもとへ帰らせ、また彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」(使徒行伝26章17−18節)。この言葉がはっきり示していますように、死より甦り、天に帰られたキリストの目に映る私たち人間は、霊的に暗い闇の中にいるのです。

 イエス様がまことの光として、この世に来られたのは、人の心の闇を照らすためです。報いを求めないで人を愛し、自分の命を燃焼させながら、ひたすら愛の光を与えてゆくことが、人間としての真実の生き方であることを教え、実践されました。私たちは「神の子」、「光の子」として自分の命の光を輝かすためにこの世に生まれてきているのです。イエス様は「わたしは世の光である」と語られました。更に、「わたしに従ってくる者は、闇のうちを歩くことなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8章12節)と説かれたのです。マタイは福音書に、イエス様の「山上の垂訓」を記し、「あなたがたは世の光である」(5章14節)と語られたイエス様の言葉を記述しています。「あなたがたは世の光になりなさい」ではなく、「あなたがたは世の光である」なのです。人間は神の愛を受け、人を愛し、人のために命を燃焼させて愛の光を放つように、天地創造の神様に造られているのだから、創造本来の自分に立ち返って、人のために命の光を放てとイエス様は言われたのです。

 私たちの心は時々暗い思いに満たされます。闇が心を覆う時です。人に対する怒り、憎しみ、嫉妬、ねたみ、許せない思いを抱きますと、心は暗くなります。愛する者の深刻な病気、死への不安、希望の喪失などは心の闇を形成します。心が暗くなったと思ったら、まことの光であるイエス様を心にお迎えしましょう。イエス様が心に訪れますと心の闇は消え去ります。闇は決して光には勝てないのです。

使徒パウロが語る肉の働きが長く心を支配しないように注意しましょう。「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽」の中に長く留まっていますと、私たちの霊は悪臭を放つようになります。聖霊において私たちの霊に宿っておられる人となられた神、イエス様は悪臭を放つ霊から離れて行かれます。イエス様がいつも私たちの霊に留まっていただくためには、常に祈り、悔い改めが必用です。

心をイエス様に明け渡し、イエス様の光に照らされながら、明るく清い人生を生きて行きましょう。彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼、イエス・キリストは神の子となる力を与えたのである。(ヨハネ1:12)

神の子として、光の子として命の光を輝かして、希望を抱きながら、暗闇が支配するこの世にあって、イエス・キリストにある勝利に生きてゆきましょう。

註 このメッセージが使用している聖書の言葉は、日本聖書協会口語訳からのものです。

 













 

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