小 石 の 波 紋
   
  



Message 51                                              斎藤剛毅

 ルカによる福音書15章3−7節の中でイエス様は譬話を語ります。一匹の羊が群の中から迷い出た時、羊飼いは見つかるまで捜し歩き、見つけ出したら羊を自分の肩に乗せて家に帰り、仲間と共に喜ぶように、神から遠ざかり、失われていた罪人が一人でも悔い改めて、神に立ち返るならば、天に大きな喜びがあると述べられました。マタイによる福音書18章4節には「一人の人の魂が滅びることは、天の父なる神様の御心ではない」とイエス様は語っておられます。

 福音書の著者であるルカもマタイも、イエス様の譬話を記録に留めています。譬えの中で語られる父なる神様は、私達人間一人ひとりの魂を深く愛しておられる人格的神様です。迷い出た魂を追い求め続け、悔い改めて立ち帰るのを願っておられる愛の神です。

 今日は師弟愛のお話を致しましょう。太田俊雄先生はかつて新潟のキリスト教主義高校、敬和学園の創立時の校長でした。戦争末期の若き頃は、大阪東南部の八尾中学校の教育熱心な教師でした。先生が担任だったクラスには吉田君という成績が1400人中の一番ビリで、平均点が60点にも満たない生徒がいたのです。学年末になると、いつも教師会で「進級か退学か」が議論されました。多くの教師が吉田君の退学を考える中、何とかして学びを続けさせたいと願う太田先生の粘り強い言葉に校長先生も折れて、仮進級が認められました。「私がついているからガンバレよ!」と励まし続ける太田先生の言葉に涙する吉田君でした。吉田君も頑張って応えました。終戦の翌年、1946年の春に吉田君は先生の導きで教会に行き、洗礼を受けました。

  ある時、太田先生はクラス担当区域の便所が汚いことを指摘し、生徒にきれいに掃除することを求めました。すると一人の生徒が「先生は便所掃除が好きらしいから、自分でしたらよろしかろ」と言って、皆で帰ってしまったのです。先生は打ちのめされたような気持ちで、ズボンをまくり上げると、生徒用の便所の掃除を始めました。涙が溢れて止まりませんでした。「日本は戦争に敗れても、教育さえしっかりやれば日本は必ず立ち上がれると考えて教育的使命に燃えて生きてきた。この自分が教育できなくなったらどうすればよいか?これからの日本はどうなるか?」太田先生は翌日も便所掃除に出かけました。その時、「先生!やめて下さい!先生が生徒の便所の掃除をしているのを、僕は黙って見ておれません。僕がやります!」とバケツやブラシを奪い取るようにして掃除を始めたのは吉田君です。それから彼は一年以上もの間、毎日毎日、欠かさず便所掃除をやり遂げました。

 三年生も終わりに近い二月のある日、玄関に吉田君が立っています。「まあ入りたまえ」と部屋に案内しますと、彼は涙をボロボロ流して「先生、僕もう学校を止めます」と言って、彼は退学の理由を、一つ、二つと九つまで挙げていきました。「なーんだ、たったそれだけじゃないか。今度は君の指を折れ!君の良い点を数えるからな。一つ、八尾高校1400人中便所掃除にかけて、君の右に出る者はいない。二つ、君は友人を見舞って励ます優しい心がある。三つ、君は新聞配達をしながら、人に出来ない勉強をしている・・・」六つ、七つと数えていくと、「先生、僕何もかもあかんことないような気がしてきました。」「ピンちゃん、頭が少々悪くたって、物覚えが少しくらい悪くたっていいじゃないか。キリスト様は、弱くて無に等しい者を選んで愛して下さるのだ(コリント第一の手紙1章26−29節)。」吉田君は声をあげて泣きながら学業を続ける決心をしたのです。

 太田先生は次に、吉田君を家の近くにある池まで散歩に連れ出しました。道ばたの大きな岩に腰掛け、泥まみれの小石を見つけると、「これは道端に捨てられ、人に踏まれ足蹴にされて泣いている、“何もかもあかん”と。だが小石にはこの大きな岩に出来ないことがある」と言って先生は池に小石を投げ入れました。そこには美しい小石の波紋が水面に広がりました。「この岩には出来ないことだ!」「先生、分かりました。」「祈ろう!」それ以後、吉田君は生まれ変わりました。少年の心に勇気とファイトが宿ったのです。

 間もなくして、吉田君は言いました。「先生、本当の教育は信仰なくして出来ないと思うのですが、違いますか?」「そう思うよ」「なら、なぜ校長先生に伝道しないのですか。」「それは誰が猫の首に鈴をつけるかという鼠の相談と同じだよ。誰が猫の首に鈴をつけるかが問題だ。」「じゃあ、ぼくがやります。」

  太田先生は放課後にバイブル・クラスの指導をしていました。暫くして「先生、一番前の席を二人分あけておいてください。」「大丈夫か?」「祈っていますから大丈夫です。」びっくりしたことに校長先生の出現です。「先生、どうぞ!」示された聖書の箇所をさっと開いて校長に渡します。「はぁ、はぁ、」と頭を下げる校長。それが何週間も、何ヶ月も続いたのです。「太田先生、吉田君は大物ですなあ。学校の宝物ですよ。毎朝、お早うございます。今度のバイブル・クラスは何日の、何曜日、何番教室で行われます。当日、時間が来ましたら、お迎えにあがります。その時間を空けておいてください」と言うのです。「当日は三回も来ます。いよいよ今日3時でございます。お願いします。3時になる。コツコツとノック。ぴょんと立ってしまうんですよ。」

 「太田先生、良かったですね。そろそろ校長先生もひとり歩きが出来るんじゃないでしょうか。」校長先生は一人で出席するようになりました。「次は、先生たちです」と言って、毎日、教員室に行って、「今度のバイブル・クラスは……お迎えに参ります」とやり続けて、教師を数珠繋ぎにして連れてきたのです。

 ある時、吉田君が太田先生に言いました。「2百軒、新聞を配るのですが、5百から6百軒の家の前を通るのです。やがて人の痛みや苦しみが分かるようになりました。「忌中」の家、病人を徹夜で看病している家、貧しい家、家族が争っている家が分かるのです。忌中の家では、立ち止って祈ります。」「何て祈るの?」「愛する人が亡くなって悲しんでいる家の人の心に、どうか神様の恵みと慰めがありますようにと祈ります。徹夜で看病している家では、いつもお母さんがお祈りしておられることが分かりますので、自分も祈ります。それだけでは気が済まず、『キリスト新聞』を買ってポスト入れています。今は16軒入れています。

 太田先生が教会に出席した時、Fさんご一家が来られて、先生に挨拶されました。10歳位の少年の頭に手を置いて、「この子が4ヶ月大病していました時、『キリスト新聞』が入っていたのです。いつの間にか読んでしまいました。頼みもしないので、「バサッ」音がしたので、玄関の戸を開けますと、驚いたことに少年が手を合わせて祈っている姿を見たのです。「まあ、あなたは何をしているの?」と聞きますと、「永い間、病気の方がおられることを知っていましたので、毎朝一分だけお祈りしているのです。」「そう、読ませていただいた『キリスト新聞』の代金を払いましょう」と言いますと「お金は要りません。おばさん、教会に来て、イエス様のお話を聞いてください。」と言われて、「今日教会にやって来ました。」吉田君の毎日の祈りでFさん家族が教会に導かれたのです。

 ピンボケ君のこと、吉田君は後に、大阪府の重度精神薄弱施設で重要な働きをしました。イエス・キリストの愛の教えは、一匹の羊、一人の魂の大切さでした。一人の魂が悔い改めると、天には大きな喜びがあること、また一人でも滅びることは神様の御旨ではないとイエス様は説かれたのです。

  今日は、吉田君が劣等感によって押しつぶされそうになり、高校から退学させられそうになって苦しんでいた時、自分を決して見捨てず、守って下さった太田先生の心を通して父なる神様の愛にふれて信仰に入り、たくましく立ち直って成長した吉田君を紹介しました。この話は太田俊雄先生が書かれた『矢と歌』という書物の中に述べられているのですが、この書物は私達がイエス様の教えにならって、愛に生きることの大切さを教えてくれます。人々から冷たい目で見られ、愛想が尽きたと言われても、天の父なる神様は決して私たちを見捨てる方ではないのです。心から悔い改めて、父なる神様の愛と赦しを信じて懐に飛び込んでくるのを、神様は忍耐強く待っておられます。

 太田俊雄先生が優れた教育者として育った背景には、母親の忍耐強い励ましがあったのです。太田先生が幼かった頃、体が弱く、大病も患い、小学校では良くいじめられて、泣いて帰って来たのです。その時、いつもお母様が必ず言う言葉がありました。「俊雄ちゃん、あなたが大病を患い、日本一の名医からも見放された時、神様はあなたを見捨てず、生かしてくださった。今は泣かされてもいい。やがて大きくなり、神様の宿題を立派に果たす時が来る。それまでは、我慢しなさい。」

 高校生になり、柔道で体を鍛え、大学を卒業して、やがて教師になった俊雄さんは、神様から与えられた宿題は、キリスト教教育者となることだと自覚したのです。晩年は、新潟のキリスト教主義高校、敬和学園の創立時の校長先生として教え、立派な人材を育てたのでした。

 













 

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