村上龍さんの大人の童話『盾(シールド)』を考える
   
  



Message 47                            斎藤剛毅

  1976年に『限りなく透明に近いブルー』という小説を書いて、芥川賞を受賞した村上龍さんは、近未来の日本に訪れる危機を描いた『半島を出よ』を出版して以来、新しい価値観を提示する話題作を発表し続ける作家です。今日は村上さんが書いた童話絵本、『盾(シールド)』(幻冬社、2006年)を紹介します。これはNHKの読書番組でも取り上げられた書物です。

 小学高学年の時でした。大の仲良しだったキジマとコジマは犬を飼っていて、よく犬を連れて丘から山道へと散歩に出かけました。キジマはコリーを、コジマはシェパードを飼っていました。ある日、二人は山に住んでいる老人に出会い、尋ねました。コジマは勉強を真面目にしていれば先生や親から「良い子だ」「頭が良い」と言われるけど、心の中には悪い子になってみたいという気持ちが起きると語ります。キジマはあまのじゃくの行動をして、「悪い子だ」「頭が悪い」と言われると、本当は良い子になりたいし、本当は頭が良いんだという気持ちがあると話します。大人から評価される良いとか悪いとか言われても、いつまでも変わらないわけではない。「本当に頭がいいということはどういうことなのでしょうか?」と尋ねます。

 すると老人は二人に犬を呼ぶように言いました。老人はそれまで乗っていたハンモックから降りて、それぞれの犬にハンモックに乗るように命じろと言います。キジマはコリーに命じますと飛び乗るのですが、ぐらぐらと揺れ動いて裏返しになったため、コリーは地面に落ちて悲鳴を上げて二度と乗ろうとはしません。コジマのシェパードは飛び乗っては転げ落ち、また命じられると飛び乗り、何回かしているうちに体重を低くすればハンモックが安定して落ちないことを学びます。

 「一度の失敗で懲りてもう二度とハンモックに乗ろうとしなかったコリーと何度も命令通りジャンプしては落ち、やがて安定させることを学んだシェパードとどちらが頭がいいのだ?」と老人は尋ねます。キジマは一度で止めたコリーが頭がいいと言い、コジマは何度も挑戦したシェパードの方が頭がいいと主張します。老人は言います。「どちらが頭がいいかなんて誰にも分からないんだよ。国や社会にとって利用しやすく、利益になりそうな子供は頭いいとほめられる。でも、そんな人間社会の価値評価には意味がないんだ。」

 そして、アボガドを出して、「味はマグロのとろに似ているので醤油とわさびをつけて食べるとおいしい。でも種は固く捨てられてしまうが、植物にとっては大切なものだ。それと同じように、人間のからだの中心に心とか精神とか呼ばれたりするものがあって、それはアボガドと違ってとても柔らかい。良いことをしたり、嬉しいことがあると胸のところが温かくなって気持ちが良い。悪いことをしたり、悲しいことがあると胸のところが痛くなり不安になる。人間はからだの中心にある柔らかな心、精神を守らねばならない。それを守るのが盾、シールドだ。」そう言うと老人は黙ってしまいます。どうしたら心を守る盾を手に入れるかが二人の課題となりました。

 二人は中学、高校へ進学し、クラスも別になりました。高校を卒業したキジマは自動車会社に入社し、工場で働いた後に、営業部に移りました。上司とも上手に付き合い、特に父親の知り合いの営業部長に可愛がられ、キジマは営業部長が自分の心を守り、保護してくれる盾と感じるようになりました。32歳になった時、営業部長の親戚の娘と結婚することになり、華やかな式を挙げ、新婚旅行はハワイでした。3年目に男の子が生まれ、キジマは営業次長になった時、借金して大きな家を建てて安心し、自分の心を守るシールドのことは殆んど考えなくなりました。

 シェパードを飼っていたコジマは、高卒前の自動車会社の就職面接で失敗し、自信を失い、一人部屋に閉じこもるようになりました。かつて中学では頑張って、勉強でトップになり、頭が良いと親や先生から言われ、ほめられましたが、高校時代に失恋し、劣等感に苦しみ、入社試験の面接失敗で自信喪失に拍車がかかり、引きこもりの毎日です。過去に頭が良いと言われたことは、今では何ら心を守る盾、シールドにはなっていない、自分は何をすれば良いのか分からない。シールドを求めて、25歳になったコジマは100匹近い犬を訓練する犬の訓練所で働くようになりました。

 自分はごみ以下の人間だという考えから逃げられず、シェパード犬を訓練しているうちに、警察犬としては使いものにはならない、いつも吠えているシェパードを忍耐強く観察しているうちに警察犬よりも、災害の時に人を助ける救助犬に向いていることを見出し、訓練の業績が認められ、信用されて、ドイツから輸入するシェパードを探すために所長と共にドイツに出かけることになります。

 さて、コリーを飼っていたキジマは40代の半ばになり、再びシールドを考えるようになりました。会社の売り上げが伸びなくなり、売れなかった車が販売会社から大量に戻ってくるようになり、その車を保管する土地を買う必要が出来、借金が雪だるまのように増え、キジマが46歳になった時、会社を経営する人が変わりました。社長が辞めて取引銀行から新しい社長がやって来て、四つの工場での自動車生産を止め、数千人の社員の整理が始まりました。取締りになっていたキジマは責任を取って会社を辞めるように命じられ、キジマを可愛がっていた部長も副社長になっていたのですが、クビになり、もはやキジマを助けてくれる人は今やどこにもいないことに気付いたのです。

 コジマの方はドイツ語を勉強して話せるようになり、年に一度は所長に同伴してドイツに出かけました。7回目のドイツ訪問の時に、ドイツの銀行に勤めている日本人女性と結婚し、実家の近くの山の斜面に自分の犬訓練所を持って独立し、奥さんは経営を支えることになり、安定した家庭を作りました。コジマにとって、シールドは「シェパードとドイツ語と妻」であると自覚していました。

 失業したキジマは収入が無くなり、住宅ローンが払えなくなり、サラ金から借りて一時しのぎが出来ても仕事が見つからず、借金取りに悩まされ、奥さんは子供を連れて実家に帰ってしまいます。自分を守ってくれたシールドがもはや無くなったキジマは自殺を考えながら、故郷に帰り、コジマと一緒に犬を連れて遊んだ懐かしい山へ向かいます。思いがけず犬の訓練所を設立したコジマと出会い、シールドについてコジマの家で話あおうというところで物語は終わります。

 コリーを飼っていたキジマは、小中学校では成績は伸びず、高校に入ってボクシングで体を鍛え、勉強にも打ち込んで自動車会社に就職し、営業畑で活躍します。会社の発展と共に地位も上がり、取締役にまでなって会社という組織が定年まで自分を守ってくれるシールドと信じていましたが、不景気の波に襲われ、会社が大きな負債を抱えた時にリストラされ、会社組織から離れた途端に家庭は崩壊し、家を失い、未来に希望を持てなくなり、心を支えていたシールドを失い、自殺を考えます。

 中学校まで成績優秀でシェパードを飼っていたコジマは、高校の時に失恋して自信喪失に陥り、入社試験にも失敗し、引きこもりの生活から、やがて自分を守り、支えてくれるシールドを求めてシェパード訓練という特別な職業に自分の生き甲斐を発見し、ドイツ語という語学力も、結婚後の妻も自分を守るシールドだと考えて、充実して生活を送っています。

 この大人の童話概要を読まれたあなたは、自分にとってのシールドは何だと考えておられますか?作家、村上龍さんは、キジマのように自動車会社という組織の一員となり出世して、幸せな家庭を築いても、会社の倒産により地位、家・財産をすべて失う可能性を語っています。この世で自分の能力を百パーセント活かして生きている人は少ないのです。失恋、受験の不合格、就職の失敗などで自信喪失に陥り、失望の闇から抜け出せなかったコジマもやがてシェパード犬の訓練所で働くようになり、後に自分の犬の訓練所を営み、良き助けてである妻を得ますが、彼の見出したシールドも不安を宿しており、百%安全とは言えません。

 自分の外にシールドを求めても、それは一時的なもので、本当の意味で心を守り、支えるものとはなりません。自分の中にある能力、才能を磨き、花をさかせたとしても、病気や突然の事故や災害で、才能が発揮出来なくなることがあります。そこには大きな失望と落胆が待ち構えています。私の知る一人の男性は、有名大学の医学部を卒業後、大学院に進み、学位取得後に知名度の高い病院で外科医師として黄金の腕を振うようになりました。しかし、彼に悲劇が襲いかかりました。交通事故に遭い、右手を損傷して、以前のように手術が思うように出来なくなり、失望の闇に閉ざされてしまいました。『盾』の中で、村上龍さんは老人に語らせます。「どちらが頭がいいかなんて誰にも分からないんだよ。国や社会にとって利用しやすく、利益になりそうな子供は頭いいとほめられる。でも、そんな人間社会の価値評価には意味がないんだ。」頭の良し悪し、成功・不成功という人間社会の判断基準はとかく、利用価値や利益価値があるか否かが尺度になっている限り、本当の意味での心の支え、盾にはならないと村上さんは語っていると思います。

 多くの人々は目に見えるものがすべてであるという考えに支配されていますから、自分が努力して築き上げてきた高学歴、高い地位、立派な家と財産の貯え、多くの業績を身に着けて、社会の人々から優れた人物と評価されることを求めます。自分を誇り満足したいのです。しかし、人よりも劣っていると評価されると落ち込み、劣等感に沈むのです。人と自分を比較しながら優劣を競い合う社会で一喜一憂する人生は悲しいものです。成功についての社会の考え方、何を持って成功者とみなすかという固定した価値観に多くの人々は振り回されています。しかし、人は挫折体験の中で、自分の能力の限界や無力さに気付き、初めて本当の自分の心を守るシールドは何かを考え始めると村上さんは語ります。

 さて、これからが私の意見です。自分の能力の限界や無力さに気付いた後の思索の中で、自分が生かされている今は、過去・現在・未来という繋がりの中にある今であり、過去とは母や父、兄弟の愛によって守られ、学校の先生、友達に支えられて成長が可能となった過去であること、その過去が存在したからこそ今の自分があることに気付くのではないでしょうか。自分一人で生きて来たのではなく、多く人々との繋がりの中で生かされてきたことを知る時、目に見える世界で忘れられがちな、目に見えない愛ときずなによって生かされてきたことにも気づくと思うのです。すなわち、自分の今ある存在は過去と深く繋がっており、また未来の大きな可能性を孕む希望という未だ目に見えない世界と繋がっている自分を知るのです。

 聖書は語ります。
「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」(コリント第一、4章18節)
 
肉眼で見えなくても確実に存在するものがあります。その一つに愛があります。愛は力です。自分の命を守り、育ててくれた力です。だから愛は価値があるのであり、人を愛することが大切なのです。人間の本当の価値は、高学歴、高い地位、立派な家と財産の貯え、多くの業績を後世に残すことではなく、いかに人を多く愛し、助けたかにあるとキリストは説くのです。人間の生命を創造し、命の根っこを支え、守っておられる天地宇宙の創造者なる神の愛のうちに生かいるという新しい自己の発見によって、新しい価値観が生まれると聖書は語ります。すなわち、今生きている自分の価値は、人間としての優劣に関係なく、神に愛されていることを発見することと深くかかわっていると語るのです。ありのままの自分が神に愛され、受け入れられている、そして、自分を人と比較して生きるのではなく、自分の固有の存在価値に目覚めよと聖書は語るのです。

 どんな人間でも大きな価値があるもの、貴い存在として父なる神に愛され、受け入れられていると聖書は語ります。旧約聖書のイザヤ書43章4節に、「あなたはわが目に貴く、重んぜられる者。わたしはあなたを愛する」という神様の人間への語りかけを述べています。43章1節以下には「あなたを創造された神はこう言われる。“恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ”。」とあります。

 













 

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