遠藤周作の『海と毒薬』にみる汎神主義の罪
   
  



Message 46                            斎藤剛毅

 皆さんはカトリック作家、遠藤周作さんの小説『海と毒薬』を読んだことがありますか?この作品は毎日出版文化賞と新潮賞を受賞したのですが、小説は太平洋戦争中に福岡のある大学部の医学部の医局員たちが、アメリカ人捕虜8人を医学上の実験材料にした事件を取り上げ、その実験的手術に立ち会った医局員二人と暗く悲しい過去をもつ一人の看護師の心の葛藤を描きながら、汎神論的二本の精神的風土の生み出す倫理観、罪と罰の問題を読者に重く訴えかけてくる作品です。

 生体解剖の目的は「人間は血液をどれほど失えば死ぬか、血液の代わりに塩水をどれほど注入することが出来るか、肺を切り取って人間は何時間生きることが出来るか」という事でした。この実験は毎日のように福岡市内への空襲と爆撃が行われて、多くの人々が死んでゆく戦争下の異常な状況のもとで生み出された悲劇的事件でありました。

 戦後、関係者たちは捕らえられ、裁判にかけられ、舞台は福岡から横浜へと移るのですが、主任教授は自殺し、助教授と助手、看護師を含む手術を行った人々には重い刑罰が課せられます。しかし、三人の医局員は懲役二年で済むのですが、その中の一人が勝呂(すぐろ)二郎という医局員なのです。もちろん小説上の名前です。

 勝呂二郎は日本に見られる一つのタイプを代表している人物です。何もかもが物憂く全ては特別の意味を持たない、どうでも良いことなのだと考える人間。何をしたって同じ、皆死んでゆく、なるようにしかならないと考える彼にとって、アメリカ人捕虜が生体実験で殺されてゆくという極めて心の倫理が問われる段階でも、その問題の重大さを気だるく思われるような人として描かれているのです。彼の夢といえば、「小さな町のささやかな病院に住み、町の病人たちを診ること、そして町の有力者の娘と結婚できれば尚良いと考える程度のこと」なのです。

 そんな彼は生体実験が進行してゆくと、急に怖くなり「俺あ、とても駄目だ」、「俺あ、やっぱり断るべきだった」とつぶやき始めるのですが、かと言って外に出る気力もなく、実験の成り行きを後ろからじっと見つめる弱い人間なのです。断る機会があったのに断らなかった勝呂の優柔不断の罪、真剣に何も考えず、積極的に何もしない罪、それは生体実験が行われている手術室にいる彼にとって、決して無実を保障するものではないのです。確かに積極的に参加し、実験を行った者よりは罪は軽いのですが、何もしないことも罪なのだということも罪なのだと、遠藤周作さんはここで訴えているように思われます。

 遠藤さんはエッセー『カトリック作家の問題』で、「なるようにしかならない、何をしたっておなじだ」という「受身の姿勢こそが汎神主義が発生する絶好の温床だ」と語るのです。確かに汎神論的日本の精神風土が、諦めの強い受身の姿勢を造ってきたのでありましょう。

 もう一人の医局員、勝呂の友人である戸田剛が登場します。小学生の時、彼は先生が喜ぶと知ると、友達に良いことをしたと偽りの作文を書き、理科の先生の宝物である蝶の標本箱を盗み出し、それがバレルのを恐れて燃やしてしまう子供です。しかし、ほかの子が盗みを疑われて責められると悩むのですが、疑われた子が仲間に蝶はどうしたのか聞かれると、得意げに「どこかの溝に捨てちゃった」と英雄気取りで語っているのを知ると、悩むことをあっさり止めてしまう少年なのです。いじめをじっと見ていて、先生が駆けつけるのを察知すると突然態度を変えて、「いじめをやめろ!」と仲裁に入る。医学生になって、女中のミツを妊娠させてしまうと、産婦人科の仲間をだまして医療器具を借りて、夜中に懐中電灯一つを頼りに、自分の手で血まみれの小さな塊を取り出して、ミツを里に帰してしまい、その後彼女に悪い後遺症が無いと知ると、苦痛感をあっさり忘れてしまう人物です。

 小説の中で、戸田は語ります。「長い間、ぼくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことも無かった。良心の呵責とは、子供の時からぼくにとっては、他人の目、社会からの罰に対する恐怖だけだった。勿論、自分が善人だとは思いもしなかったが、どの友人も一皮むけばぼくと同じだと考えていたのだ。偶然の結果かもしれないが、ぼくのやったことは、いつも罰を受けることはなく、社会の非難をあびることはなかった。」註@

 戸田は自分の犯した悪に対する後ろめたさ、不安や自己嫌悪はあるのですが、自分だけの秘密が誰にも嗅ぎ付けられないと分かると、やがて消えてしまうものでした。戸田が生体解剖の話を聞いたとき、「これをやった後、俺は心の呵責に悩まされるやろか。自分の犯した殺人に震え慄くやろか。生きた人間を生きたまま殺す。こんな大それた行為を果たした後、俺は生涯苦しむやろか」と問い、助教授や助手のスマイルを見ると「この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼らの恐怖は世間や社会の罰に対してだけだ。自分の良心に対してでは無いのだ」と語るのです。

 遠藤周作さんにとって、すべてものに神々が宿ると考える汎神論には、良心の創造者である神、正義を愛し、罪悪を罰する人格的な唯一の神が存在しないのです。怒りの顔すら出さないのが汎神主義の一つの特徴なのです。良心は麻痺しているのです。生体実験が終わり、再び実験室に戻った戸田の心には激しい良心の痛みもなく、心を引き裂くような後悔の念もなく、無感動で堕ちるところまで堕ちたという気持ちが彼を締めつけたのです。註A

 良心の麻痺は全ての倫理的基準の放棄を意味し、それは毒薬を少しずつ舐めて中毒患者になるように、少しずつ魂を毒しながら破壊し、暗い虚無の世界へと魂を堕落させていくことなのです。病院の屋上から眺められる夜の海、それは汎神主義の悪魔的な面を象徴的に示すものとして語られています。汎神主義はキリスト教が語る「インマヌエルなる神」、「私たちと共にある神」という観念を持ちません。そこには真の神の名に値する神が存在しない世界なのです。キルケゴールが語りましたように、そこには消極的絶望と積極的絶望という「死に至る病」があるのです。

 海は絶望という毒によって果しなく堕落してゆく魂の深遠を象徴しますが、同時に、一切の毒を解毒し、魂の中に生命を再生してゆく希望の象徴でもあるのです。インマヌエルという概念は再生と希望とに深く関わっているのですが、日本人にはその考えは未だ定着することはないのです。

 註@ 遠藤周作『海と毒薬』(新潮文庫)、116−117頁。
 註A 遠藤周作『海と毒薬』(新潮文庫)、154頁。













 

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