人の心を癒して下さるイエス様
   
  



Message 45                            斎藤剛毅

札幌、仙台、東京浅草、京都、小倉、博多など日本中どこでも、祭りの時は人々でにぎわいます。祭りには日頃の惰性的沈滞を破る何かがあります。初めは神への収穫感謝の祭りでありましたが、長い歴史の過程で、文化的、伝統的、地域的、商業的要素も加わり、祭りは多様性を持つようになりました。身体が触れ合うほどの混雑の中で、人は束の間の充実感、生きていることの実感を求めて歩いています。

イエス様も祭りのためにエルサレムに上られました。その時どこにイエス様の目が向けられていたのでしょうか。ヨハネによる福音書5章1−9節は、エルサレムの羊の門のそばにあるベテスダ池のまわりを囲むように作られた回廊に、大勢の病人が体を横たえていた情景を描いています。その病人たちにイエス様の関心が向けられておりした。もちろん、祭りに浮かれる人々を無視しておられたわけではありません。イエス様は何度も群衆に向かってお話をなさいました。善人にも悪人にも、健康な人、病人にも等しく臨んで来る神の恵みを語り、「アーメン、アーメン」(然り、然り)と神の恵みを肯定賛美しておられたのです。

「アーメン、アーメン、神様の愛は太陽の光と熱のように全ての人に臨んで来ます。神様の恵みは雨のように人々に等しく降り注いでいます。それゆえに、神様の愛と恵みは賛美に値するのです。アーメン、アーメン。この神様の愛と恵みの事実に目覚めて欲しい」とイエス様は語られました。他方、祭りのにぎわいとは関係なしに、今日も心が喜びに浮き立つことも無く、希望も無く、死ぬこともできず、ただ体を横たえている病人たちにも、イエス様の憐れみの心が向けられていたのです。福音書記者、ヨハネは「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(5章3−5節、新共同訳)と述べています。そこにイエス様の足が向けられて行くのです。回廊に横たわっていた人々は、体だけではなく心も病んでいたからでした。

国際連合の専門機関であるWHO(世界保健機関)の執行理事会は、従来の健康の定義、「健康とは、肉体的、精神的、および社会的に良好な状態である」に加え、霊的(スピリチュアル)という言葉を加える提案を1998年、賛成多数で議決しました。霊的健康という概念が、20世紀の終わりに盛り込まれたのです。霊的健康とは、スピリチュアル・ペインが取り除かれ、癒された魂の状態です。スピリチュアル・ペインとは、生きる目的や意味、自分が存在する意味や価値を見失って、日常的健康を失い、精神的にも危機的状態に陥った時に味わう魂の痛みです。

イエス様は私たち人間のスピリチュアル・ペインを取り除き、癒し、肉体的、精神的、霊的および社会的に完全に良好なダイナミックが状態を回復して下さる癒し主なのです。皆様が良くご存知の1997年に亡くなったマザー・テレサはインドのカルカッタで「死を待つ人々の家」を開設し、自分は周りの人からもはや愛されず、見向きもされない存在であるという苦悩の中で、人間として生きる意味と目的を失い、絶望して病み、路上に倒れている人々のために、ホスピスを作り、病む人々が愛され、介護され、人間の尊厳性を回復し、感謝の心をもって死んでゆく機会を与える、イエス様の癒しの業を実践・継承した人でした。

いつも人と比較して「自分はダメ、ダメ」と劣等感と失望感に心が落ち込んでいる人は心の病んでいる人と言えます。言ってはいけないと知りつつも、つい人の悪口を言ってしまう自分。いらだったり、怒ったり、嫉妬したり、恨んだりしてはいけないと思っていても、すぐにいらだち、怒り、ねたんだり、恨んだりしてしまう、やりきれない自分。心に描いてはならないと思いつつも、自分を汚す醜い情景を心に描いてしまう自分。してはいけないこと、それが悪いことと知っていても、つい行ってしまう弱さ。このように自分の意志が弱く病んでいると考えている人がこの世には大勢おります。          

「目の見えない人」が体を横たえています。全能の神様はきらめく星座、太陽と惑星、地球と月、地上の美しい海山川湖沼、動植物をお造りになりました。季節を彩る草花、可愛らしい小鳥たち、豊富に与えられている穀物や野菜果物、山の幸と海の幸、それらは皆神様がお造りになって、私たち人間に与えて下さったものです。それらが神様からのプレゼントとして見えない人は、心の目が病んで見えていないのと同じです。また心からの感謝を神様に言い表せない人も、舌が不自由であるのと同じではないでしょうか。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」とイエス様は語られました。 私たちの心は罪によって汚れ、清くはありません。メガネをかけていて水蒸気で曇ってしまいますと、よく見えなくなります。それと同じ様に心の目が病気になり、曇ってしまいますと、神様の姿と神の天地創造の御業がよく見えなくなるのです。「色メガネ」をかけますと、ありのままの色彩で物を見ることが出来なくなります。私たちは往々にして、先入観念とか自分の期待する理想像という「色メガネ」をかけて人を見たり、期待するために、人のありのままの姿が見えず、また受け入れられなくなるという過ちを犯すことがあります。他の人からの誤った情報によって、それが先入観となり、誤った評価をすることがあります。

「足の不自由な人」が次に語られています。原語では足が滑るという意味の言葉が用いられています。足が滑って思いがけない怪我をすることがあります。それが一度だけの不注意であっても、場合によっては、一生不自由な体になってしまうことがあるのです。しっかり立っていなければならない時に、誘惑の力に負けてバランスを崩してしまい、罪のガラスの破片の中に落ち込んで、立ち上がれないほどのけがをした人が大勢います。人に言えない数々の失敗を人は心にそっと隠しています。神様のお赦しがないと、人々は正々堂々と胸を張って歩いて行けないのです。

「体の麻痺した人」がおりました。聖書協会口語訳には「やせ衰えた者」とありますが、体の活力を失って、もはや動けなくなった人々が意味されています。生きることに希望を失った人、はっきりとした人生目標や生きがいを失った人が、急に痩せ衰えてしまうことが多々あります。愛する家族を失った人、事業が行きづまり、暗礁に乗り上げてどうにもならず希望を失った人、何度も就職試験に失敗して就職する気力が奪われた人、人生計画が挫折して食欲を失い、呆然として無気力に日々を過ごす人等、様々な理由で生きる気力を失ってしまった人々を時折り見かけます。イエス様はこういう人々を見捨てず憐れまれるのです。

そして、その中でも最も絶望的な心の人へとイエス様は足を向けられます。38年間病気に悩み苦しんで、体も心も全く弱ってしまってどうし様もなく、ただベテスダの池の回廊に体を横たえているだけという一人の男がおりました。彼の場合はもはや希望がないのです。死ぬことだけが救いなのです。回廊に横たわっている大勢の病人たちは、池の表面を天使がかき回すと信じられている劇的な瞬間を待ちわびています。表面が動いた時、一番先に飛び込んだ者は癒されたので、その恵みに預かりたいと、一番乗りをめざす期待が病人たちにはあるからですが、この病人にはその希望すらないのです。なぜなら、誰も彼を助けてはくれないからです。ですから彼の希望は皆が寝静まった時にあります。闇の中で人が眠っている時じっと池を見つめ、池の表面が動くのを見ると、力を振り絞ってやっとの思いで池に入りかけるのですが、いつも誰かが気づいて先に池の中に入ってしまうのです。 

長い間患い、医者を訪ねまわっても癒されませんでした。「病んで、苦しんで、悩んで死んでいく。そのために自分は生まれてきたのか!祭りの中を浮かれて、はしゃいで歩きまわる人々。しかし私にはもう心の浮き立ちもない。じっと耐え悩み続け、しかも死は恐ろしい。死から逃れようとして来たが、いつかきっと死は私を捕える時が来る。それが私の終わり。それが私の人生か? 何かよいことが私の人生には起きないのだろうか?」そんな問いが彼の思いの中に起こされていたに違いないのです。こんな人の傍らをイエス様は通り過ごしてしまうことはできない方なのです。その男が一番望み、それが一番の幸せであるならば、そうなる様に助けてあげることが、最も深い愛であることをイエス様はよく御存じなのです。「なおりたいのか」とイエス様はお聞きになりました。イエス様はこの人の中に「なおりたい」という希望、健康への意志すら消えかかり、死を絶えず考えて、死に怯えていることを洞察なさったのです。

人生に対する信頼と愛と希望、それを失うと人は生ける屍になってしまいます。人生は神と人との出会いの中で意味を持つものなのですが、神を知らず、自分にも人にも信頼と愛と希望を持てなくなると、人は空しさと孤独の暗やみの中に沈み込んでしまいます。沈没しそうな船の様に、絶望の波に心を襲われて、「万事休す」と悲しくうつろに空を見つめているこの病人に対して、イエス様は「なおりたいのか」と優しく尋ねられたのです。彼はイエス様のまなざしの中に限りなく深い愛を読み取りました。消えかかっている希望の灯がもう一度燃え立つような、そんな熱い愛の炎が彼の心の中に入ってくるように思いました。そして、「この人は私の心の苦しみを分かっていて下さる方だ。この人は私のことを本当に思って、生きる力を与えようといて下さる。」と直感したのです。彼の中に失われかけていた希望は、イエス様の愛により生き返って答えます。「主よ、…私を池の中に入れてくれる人がいないのです。」「主よ」という言葉の中に、心の闇を照らす限りなく深い愛のまなざしに対する驚きにも似た思いが表現されています。

旧約聖書の創世記に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光りあれ。』 こうして、光りがあった。」とあります(1章1−3節)。38年間病み患った男の魂は混沌として、闇が支配していたのですが、イエス様の愛が彼の魂の中を動いたのです。愛は偉大な創造力であり、癒しの力です。イエス様は言われました。「起き上がりなさい。床を取り上げて歩きなさい。」 
イエス様はここで三つのことを力強く語り、愛をもって命じておられます。第一は「起き上がりなさい!」起き上がることは新しい希望の世界への門出であり、愛の冒険の世界への出発なのです。この出発は起き上がることによってのみ可能となるのです。愛は生きる力を生み出し、希望を育てます。主の愛の言葉によって彼は起き上がる力が与えられました。

第二は、「床を取り上げなさい!」「床を取り上げること」は、どういうことを意味するのでしょうか。床には過去の思い煩いや苦悩、人間不信や人生に対する失望と怒り、死への恐怖などが染みついています。その悪臭の放つ過去を取り上げて、大胆に捨てることを意味します。自分をそこに縛りつけていた過去の床、それはもはや担ぎあげて捨てることができるものに変わるのです。クリスチャンのなかに、いつまでも過去の罪に捕らわれているために、イエス様の十字架の死によって可能とされた神の赦しを受け入れられず、罪責感から自由になれない人がいます。大胆に罪の赦しを信じなければなりません。イエス様の命令を受けた男は床を取り上げました。

イエス様は第三に言われました。「歩きなさい!」この大胆な命令の言葉の中に、イエスさまの愛が込められています。「あなたは今まで過去の呪いに縛られていた。しかし、今やあなたはそこから自由になれるのだ。あなたは私の言葉を信じて過去の自分にきっぱりと否!を言いなさい。神が愛であることを信じて、神の愛がいつもあなたと共にあることを固く信じて、生きてゆきなさい。未来に向かって、希望を持って、神の愛の中を歩いて行きなさい!」すると、驚くべきことが起こりました。「その人はすぐによくなって、 床を担いで歩き出した」と書かれています。主イエス様との出会いは、このような素晴らしい大きな変化を人にもたらすのです。何と大きな恵みでしょう!          

あなたは今日、どのような癒しを自分の中に求めておられますか。本当にイエス様に癒していただきたいという心の病気をお持ちですか。もしお持ちの場合、心からその病から自由にされたいと望んでおられますか。ある人は祈りました。「神様、私の心の病気は、神様を心から愛せないことです。また自分を愛するように人を愛せないことです。どうか私を憐れみ、愛を与えて下さい。あなたを愛し、人を愛する喜びを与えて下さい。」このような祈りは必ず聞かれます。熱心に求めれば、人の心に神様の愛が注ぎ込まれます。人をどうしても許せない、寛容になれない、人を嫉み、そねみ、人にいらだち、悪意を持ち、復讐心すら抱いてしまう。また人への怒り、敵意、意地悪、悪口、中傷が心を毒し、病にしていると考えておられる方はおられませんか。イエス様は「直りたいのか」とおっしゃいます。どんな心の病でも癒して下さるイエス様に粘り強く祈り、心の問題を解決していただきましょう。

イエス様は私たちの心の病を癒すためにこの世に来られたのですから、安心して主の癒しの業に自分をお委ねして下さい。信じて祈り続ける時、主イエスは人の心の病を癒して下さいます。私たちは、イエス様の助けを受けて、健康な心を持つ自分に変えられてゆきます。いつまでも過去の罪にしがみつき、自分の弱さに留まって、悲しみと消極的な態度で生きてゆくこともできます。罪意識から自由になることも出来ます。それはあなたが決めることです。あなたはどちらを望まれますか。













 

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