ジョン・バンヤンの『悪太郎の一生』
   
  



Message 43                            斎藤剛毅

 17世紀のバプテスト派のクリスチャン作家、ジョン・バンヤンの著作の中に『Mr. Bad manの生涯』(The Life of Mr. Bad man)という作品があります。昭和30年(1955年)に『悪太郎の一生』という題で新教出版社から出版され、絶版となり、昭和44年(1969年)に山本書店から高村新一訳で新しく出版されました。今日はこの作品に登場する主人公の悪太郎を紹介します。

悪太郎は新約聖書のガラテヤの信徒への手紙5章19−21節にある「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、…ねたみ、泥酔、宴楽及びそのたぐい全てを持ち合わせているような人間でした。悪太郎は放蕩の限りをつくし、次々に働く店を変え、思いがけず親の財産の分け前にあずかり、商売を始めるのですがうまくいくはずがありません。商売以上に遊びにうつつをぬかし、金を借り、借金取りに追われる身となりました。

悪賢い悪太郎は、悪い仲間とどうしたら金持ちの女と結婚出来るかという相談を始めました。やがて悪太郎の住居からそれほど遠くない所に、信心深く財産を十分持った独身女性が住んでいることが分かりました。悪い仲間が集まって彼女を罠にはめる作戦会議を開きました。彼女は信仰深く、毎日曜日に教会に行き、説教を聴くことを喜んでいることが分かりました。悪太郎は同じ教会に行き、彼女の目に止まる場所に座ります。いつも真面目に振る舞い、聖書の言葉が好きでたまらないように自分を見せつけるのです。家に帰る時も彼女の近くを歩いて帰ります。

暫くしてから彼女を訪ね、自分の罪をどんなに悲しんでいるかを語り、彼女の信仰の素晴らしさをほめ、彼女の好きな説教者、信仰の友をほめ、彼女の仲間と前から知り合いでなかったことを残念に思うと語るのです。次に、彼女のような人を妻にすることが人生の最高の幸福と思うと語ります。金のことを一切口にしません。結婚すれば自然と彼女の金は自分のものとなるからです。そして、悪太郎はついに彼女の心を射止めたのです。

可哀そうに、彼女は仕掛けられた罠に見事にはまってしまいました。彼女の両親は既に亡くなっており、おじさんおばさんはいたのですが、恋の盲目に落ち込んだ彼女は、牧師にも親戚にも相談せず、悪太郎と結婚する決意を固めてしまったのです。悪太郎は背が高く色白で、結構男前で上等な服を着て、彼女に終始紳士的に振る舞いました。猫かぶりの悪太郎であることは乙女の目には見抜けなかったのです。悪太郎は言いました。「自分は良い商売をしていて、あなたには金銭上の心配はかけません。わたしに必要なのは正直で信仰深い妻なのです。」そして、信仰上の良書を送って「これは信仰の養いのために良い本ですから読んでください」としらを切って語るのでした。

悪太郎は正直で信仰深い彼女と結婚して、豪華な披露宴は彼女の持参金から支払いました。天使に偽装した悪魔のように、やがて悪太郎は本性を現します。借金取りが押しかけてくると悪太郎は彼女の持参金から払いました。彼はがらりと変わって、悪太郎に変身して彼女を失望させました。教会に行くことを反対し、どうしても行くと言うと脅迫し、時には暴力を振るいました。彼女の友人たち、親戚はみな失望し、悲しみました。

悪太郎は夜泥酔して帰り、時には娼婦すら家に連れてくる有様でした。不機嫌な態度を取るとあらゆる悪口、罵倒の言葉で彼女を苦しめるのでした。前と変わって牧師の悪口を言い、信仰深い人を偽善者となじり、神を冒涜する言葉を吐き続けるのです。彼女は心を痛め、涙の毎日でしたが、子供が次々に出来て、別れることも出来ず、悲しい生涯を送ったのです。

悪太郎はある晩、大酒にひたり、酔って馬に乗り、気が狂ったように馬を飛ばして泥たまりの所で馬がよろめき、彼は地に投げ出され、足を折り動けなくなりました。痛さの中で彼は「神よ、お助け下さい。主よ、あわれんで下さい」と祈りました。しかし、自分の罪をお赦しくださいとか、魂が救われるようにとか、決して祈らなかったのです。ただ、足の痛さを取り除いて欲しいと一心に祈ったのです。

そういう悪太郎に神の罰、懲らしめが臨みました。彼は重い病気にかかり、今度こそ死ななければならぬと思いました。彼は地獄に落ちるよりほかはないと思い、泣き、恐れのために震えました。悪太郎は妻に地獄から救われるように祈ってくれと頼みました。牧師が訪ねることに同意し、その言葉に熱心に耳を傾けました。彼は愛情深い夫に変わったように見えました。妻も他の人たちも、悪太郎の変化を喜びました。しかし、良くなってくるにつれ、彼は再び悪徳の人間に戻ってしまいました。旧約聖書のホセア書7章14節の言葉のように、「彼は真心をもってわたし(神)を呼ばず、ただ床の上で悲しみ叫ぶ」という態度だったのです。

悪太郎の妻は、結婚の後に受けた時より一層ひどい幻滅を味わい、もっと深く悲しみ、力が抜け、それが原因で患い、衰弱して死んでゆきました。しかし、彼女は死に際して、イエス・キリストを待ち望み、罪の赦しと深い慰めを受け、復活の希望を抱き、子供たちを諭して天に召されてゆきました。妻を失った悪太郎はやがて、彼に負けずに悪い女を妻に迎えることになったのです。著者のバンヤンは、それこそが神が悪人を罰する方法だと書いています。新しい妻は彼に負けずに浪費家で、喧嘩を好み、打たれると打ち返し、呪いの言葉を聴くと、それ以上ひどい呪いの言葉で言い返す女性でした。

それを見聞きした人々は、先妻をあのように苦しめ、虐待したことに対する神の裁き、悪への報いだと言いました。15,6年経って全てを使い果たして無一物になって二人は別れました。彼は忌まわしい病気になり、悪臭を放ちながら、しかも罪を悔い改めずに死にました。

著者バンヤンは罪を悔い改めることは、罪から離れることであり、罪を認めるということと、罪の悔い改めとは違うと強調します。悔い改めとは、罪を犯した人が罪を悔いて罪を離れ、イエス・キリストによって神様に向き変わり、キリストに倣う生活を送ることだと語るのです。悪太郎は罪を告白して、罪の赦しを求めることを促されると、すぐ話をそらし、疲れていて何もしゃべれないと嘘をついて、告白を避けました。そして、神への真の叫びも無く、平和に死に、確実に地獄に落ちて行ったとバンヤンは語ります。

信仰と愛と希望に生き、神を畏れて神を愛し、人に愛をもって接して生きた人は、どのような死に方をしようとも、その人は天国に行くとバンヤンは語ります。ジョン・バンヤンは書著『悪太郎の一生』を通して、私たち一人一人に反省を促しています。私たちが持つ良心は、人間の創造主である父なる神様によって造られています。良心は聖く、正しく、美しく生きることを願う神様の声です。良心は人が悪に走ると痛み、悲しみます。悪太郎のように良心を麻痺させて、悔い改めの心を失い、神の警告を無視し、霊魂を地獄へと落ちて行かないように願うバンヤンの小説を通しての声に真面目に耳を傾けたいものです。













 

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