心の重荷を下ろして下さるイエス様
   
  



Message 41                            斎藤剛毅

 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを 休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイによる福音書11章28−30節、口語訳)
                  
重荷を負って苦労した人物を過去に求めよと言われた場合、誰を思い起こしますか?徳川家康とNHKドラマに登場した「おしん」と答えた人がいます。最近の韓流ドラマで知られるようになった韓国での有名な医師「ホ・ジュン」を挙げる人もいるでしょう。
 徳川家康は「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」と述べました。重い荷物を背中に負って歩いてゆくことは苦しいことです。徳川家康は幼少にして母と別れ、人質として育てられてゆく苦しみを味わい、戦乱の世、戦いに次ぐ戦いの中で、天下統一への道を、小田信長、豊臣秀吉と共に分かち合いました。徳川体制を築き上げる道のりは、確かに重荷を負って遠い道を歩いてゆく苦渋に満ちた道であったのです。

 NHKの朝の連続ドラマ「おしん」は、幼少の時から奉公へ出され、多くの苦しみに耐えて成長してゆく女の一生物語でありました。徳川家康の生涯も、おしんの生涯も、共に自分の意志では変えることが出来ない運命ともいうべき力によって、苦しみを負わされ、それに耐えて、逞しく成長し、道を拓いてゆく、いわば忍の一字の生涯でありますが、イエス様が教えておられる重荷を負う苦労というものとは、質が違います。何故かと言いますと、イエス様の教えは、魂の安らぎ、休息、平安との深い関わりのある、魂から平和を奪ってしまう重荷について語っているからです。

 徳川家康やおしんは、重荷を下ろしたくても下ろせず、否応なしに負わせられ、重荷を負い続けてゆくという性質のものですが、イエス様が語る重荷は、心の状態によって生じてくる重荷ですから取り去ることが出来る重荷なのです。
イエス様の教えを理解するために、まず重い荷物を背中に負っている人、あるいは体重のある人をおんぶしている人のことを考えてみて下さい。その人は大抵頭が高くなっています。今度は重い荷物を積んでいる荷車を運ぶ二人の姿を考えて下さい。二人は荷車から伸びているくびきを握って荷車を引いています。二人の頭は低く下がっています。くびきを負うということは、頭を低くするということなのです。イエス様は「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」とおっしゃいました。イエス様のくびきを負うとは、どういう意味なのでしょうか。頭を低くしなければ、負うことは出来ないくびきなのです。ですから、頭を低くすることを学びなさいということなのです。

これでお分かりいただけたと思いますが、イエス様は心のへりくだりの大切さを教えておられるのです。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という川柳的俳句があります。人は円熟するほど、頭の低い謙遜な人になってゆくという意味です。イエス様は「わたしは柔和で、心のへりくだった者である」と言われました。心のへりくだった者とは心が謙遜な人ということです。

旧約聖書のイザヤ書57章15節に「いと高く、上なる者、永久に住む者はこう言われる。「わたしは高く、聖なるところに住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心をいかす」(口語訳)とあります。預言者イザヤは、「へりくだる」ということと、「心砕ける」と言うことと同じ意味で用いています。心が砕かれるということは、心が柔和になるということです。心のゴツゴツしたところが砕かれて、柔らかく角が取れた、丸みのある人は、他人と和することが出来る人です。重箱に石と砂を入れたとき、箱の隅にまで入るのは砂のほうです。心が柔和な人のほうが相手に自分を合わせることが出来るのです。

 心が砕けて柔和で、心が低い人には魂の平和が与えられるとイエス様はおっしゃいます。一つの例を挙げてみましょう。ある人が「あなたって駄目な人ね!」と言ったとします。心が堅く砕けていない人は、直ぐに怒りを現わし、「自分を駄目だという人間はけしからん」と思うのです。そして、人が言った言葉が重荷となって心にいつまでも残るのです。

心が柔和で、心が低い人は、「あなたって駄目な人ね!」と言われた時、「そうね、私は駄目な人間ね。ごめんなさい」ということが出来る人なのです。そして、心の中では「本当はあなたが考えているよりも、ずっと駄目人間なのです。なぜなら私はイエス様を十字架につけた人たちの仲間の一人なのですから」と言える人なのです。でも、こんな私をイエス様は赦してくださり、愛して下さるので本当に感謝なのです。だから、あなたも私を寛容な心で見てくださいね」と心の中で言える人なのです。

 心が高いということは、本当はそれほど力が無いのに自分に実力があると思うこと、本当はそれほど頭が切れるわけではないのに、自分は頭が良いと思い込むことなのです。そういう人は背伸びをしているのです。それは見せ掛けのものですから、やがてメッキがはげてくるのです。でも心の高い人はメッキで通そうとしますから、「私には実力があるのだ!頭が良いのだ!出来るのだ!」と盛んに自己主張するのです。それはとても疲れることです。虚勢をはるという言葉は、漢字が示すとおり、虚しく、あくまで見せ掛けの勢いでしかないのです。

 そういう人は自分より実力があり、頭が良く、より出来る人に出会うと気になって仕方が無く、また劣等感で悩むのです。また自分より優れた人の存在が邪魔でしょうがなくなるのです。見せ掛けによる優越感、心に隠している劣等感、どちらも心を安らかにしてくれません。心の高い、高慢がそのような心の重荷を作り出すのです。高慢は不安、劣等感を心に生み出します。

 心が低く、砕かれている人は、背伸びをすることなく、虚勢をはることなく、必要以上に自己主張することなく、自分より優れた人を祝福し、その能力が神様に豊かに用いられるように祈り、優れた人と自分を比較して劣等感に悩むことなく、自分の能力に不安を持つこともなく、ありのままの自分を受け入れて、愛してくださるイエス様の愛に満足し、自分の出来ることを精一杯して生きてゆくのです。自分より優れた人を祝福することを実践してみて下さい。劣等感は確実に消えてゆきます。

 私たちがイエス様のくびきを負うということは、私たちが心を低くすること、心を砕くこと、心を柔らかに、柔和にすることの大切さを学ぶことなのです。心が低くなり、砕かれますと、心が高く、堅かったことから生じていた魂の重荷が下ろされ消えてゆくことを実感するのです。魂は安らぎ、平安が与えられるのです。イエス様の言葉、「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」とは、そういうことを意味するのです。

そして、心が低くなった時、心が高かった時に見えなかったことが見えてくるのです。心が低くなり、柔和になった母親は、幼稚園から帰った子供の描いた可愛らしい作品を、それまで自分の目の高さに貼っていたものを、子供の目の高さに合わせて壁に貼るようになるのです。心の低くなった人は、相手の立場に自分の心を置けるようになります。相手の立場に立って考え、理解するようになりますと、人は自分の悩みや悩みを理解してくれる人として、心を開くようになります。そのようにして、相手の重荷を軽くするお手伝いが出来るようになるのです。

 人間は高慢になりやすい性質を宿していますから、イエス様のくびきを負って学ぶ必要があるのです。心が高い、高慢な心は次第に謙遜な心に変えられてゆきます。神の御子イエス・キリストを信じ、その教えに従い始めますと、神様は私たちを愛するゆえに、心の高慢を砕き、謙遜にするための訓練をお与えになります。それは愛するゆえに与える訓練なのです。使徒として召されたパウロは語りました。「あなたがたの会った試練で、人間として耐えられないようなものはない。神は真実な方である。あなた方を耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように逃れる道も備えて下さるのである。」(コリント第一10章13節)

  使徒パウロは、自分が如何に高慢な者であったかを告白しています。そして、「高慢にならないように、私の肉体にひとつの棘が与えられた」と述べています(コリント第二12章7節)。その試練の苦しさの中でパウロは呻いていますが、神様の恵みの語りかけを聞くのです。「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に表れる」(コリント第二12章9節)。ヘブル人への手紙の中には、「すべての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(12章11節)とあります。

イエス様のくびきを負うということは、神様からの訓練を受けるということを意味します。「くびきを負うことによって、わたしに学べ」と言われるイエス様は、私たちの高慢が砕かれていくのを、ただ傍観しておられるのではありません。いつもイエス様が一緒にいて下さるのです。一緒にくびきを負ってくだるのです。ですから、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」を言われるのです。イエス様は一緒に歩んで下さり、私たちの力に応じて、必要な力を添えてくださるのです。イエス様はいつも傍らにおられるということはなんと心強く有難いことでしょう。「信じる人は幸いなり」です。













 

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