カインのしるし
   
  



Message 40                            斎藤剛毅

  神の戒めを破ったアダムとエバはエデンの楽園を追われ、土を耕す者となったと創世記3章は語ります。楽園を失いましたが、二人の生活は続いてゆくのです。楽園追放の前に、神はエバに「あなたは苦しんで子を産む」(3:16)と語り、母となる約束をなさいました。エバは子供を産み、カイン(槍あるいは矢という意味)と名付けます。楽園への道は閉ざされましたが、二人には家庭を持つことが許されたのです。エバは「私は主によって、一人の人を得た」と言って神より与えられた恵みを喜びます。

 二人には更なる恵みが臨んで、エバはもう一人の子を産み、アベルと名付けます。「息」「はかなさ」という意味です。生まれた時に虚弱であったからでしょうか。息子が早く死ぬことを母の直感で感じ取ったからでしょうか。手がかかる苦労の多い子であっても、やはりアベルも「主によって得た」恵みの子、神の賜物だったのです。
 カインとアベルの幼少期は何も語られておりません。二人は成長し、カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となったと創世記4章は語ります。次に悲劇の伏線となる供え物を捧げる場面が出てきます。楽園では供え物を神に捧げる祭壇を作る必要は無かったのです。楽園ではいつも神とまみえることが出来たからです。楽園追放後、神との交わりを求める捧げものが始まったと創世記は語っているようです。

 4章3−4節を読みますと、主なる神が一方の供え物を顧み、他方の供え物は顧みないという事態が生じたことを知ります。「主はアベルとその供え物を顧みられた。しかし、カインとその供え物は顧みられなかった」とあります。この表現は、供え物を捧げる人格の名前を明示することにより、その人の心が象徴的に表わされていることを示します。そして、その人の心の現れとしての捧げものが問題となっていることが分かります。即ち、「カインの心とその現れとしての供え物」、「アベルの心とその現れとしての供え物」と読むことが出来ます。

 私たちが日曜ごとに教会で捧げる礼拝で、神様は私たちの心をみつめておられることを教えられるのです。賛美の歌に、祈りの言葉に、捧げる献金に、私たちの心が現れるので、神様はその心を見ておられると聖書は語ります。
なぜ、神はアベルとその供え物を顧みられ、カインとその供え物は顧みられなかったのでしょうか?その謎を解く鍵はヘブル人への手紙11章4節にあります。「信仰によって、アベルはカインよりも優ったいけにえを神に捧げ、信仰によって義なる者と認められた」(口語訳)とあります。最善のものを捧げようとする真心がアベルにはあり、心の真実においてカインに優ったというのです。

 ここで述べられている「信仰」とは、神の存在を信じるということだけではないとヘブル人への手紙の記者は述べています。アベルは自分の血管の中に、親から受け継いだ罪の血が流れていることを感じ、自分の内にある罪を認めていたのです。ゆえに、動物の群れの中から生まれたばかりの、よく肥えた初子を、即ち最善のものを捧げ、罪の赦しを求めたのです。そのような信仰を神は義と認められた、喜ばれたのだと解釈しているのです。

 それに反して、カインは単純に自分の労働の結果である地の産物を供えて神を喜ばせようとしました。自分の供え物は必ず神に喜ばれると勝手に思い込んでいましたから、自分の供え物は神に顧みられず、弟の物は顧みられたことを知って非常な怒りを覚え、神の前に顔を伏せたのです。ここにカインの不信仰が現れています。信じる者にとっては、神のなさることはすべて最善であり、正しいのです。財産を全て失っても、愛する者を失っても、子供を失っても、健康を失っても、尚も神の義と愛は変わらないと信じるのが信仰だと聖書は語ります。しかし、ご利益信仰に生きている人にとっては、そのような信仰を持つことは困難です。カインは自分の供え物が顧みられなかったとき、自分の側に問題があったことを反省すべきでしたが、逆に神を恨んで、怒ったのです。「顔を伏せた」とは恨みと怒りを表します。そして、神への恨みは弟アベルを殺してやろうと思うほどに深刻化してゆくのです。

 “そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せしています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを納めなければなりません」”(6−7節)。大変含蓄のある言葉です。神様は言われます。「あなたが善を行わなければ、罪が悪い獣のように門口にうずくまって、門から出ようとするあなたに襲いかかるであろう。罪はあなたに対して罪を犯させようと慕い寄る。しかし、あなたは罪よりも上にあり、罪を治めなければならない。悪の中に留まり続けると、あなたは罪の力の奴隷になってしまうであろう」という警告です。

 カインは神の警告に耳を傾けず、アベルを妬んで、遂には弟を殺してしまいます。多分、アベルは兄の暴力に対して無抵抗の立場を取ったのでしょう。悪いカインは勝ち、正しいアベルは負けて殺されるのです。何ともやりきれない場面です。神の憐れみによって築かれた家族は悲しくも引き裂かれてしまうのです。罪の力はまずアダムとエバ夫婦の中に働き、次に家庭の中に働き、愛と信頼、赦しといたわり合う関係を破壊してしまうのです。カインのこぶしは、歴史の展開の中でこん棒と変わり、剣、槍となり、小銃、大砲となり、爆弾、ロケット砲となり、遂には原水爆弾と変わってゆくのです。

 正しくも弱いアベルは倒されました。アベルの死は無駄に終わったのでありましょうか?ヘブル人への手紙の記者は「彼は死んだが、信仰によって今も語っている」(11:4)と述べています。神の子イエス様もこの世の悪に力によって殺されました。屠られる羊のように黙って殺されました。しかし、父なる神は正しき者の死を無意味にはなさいません。神様へのアベルの真実の心は聖書に書き留められ、今も覚えられており、イエス様の死は復活によって、信じて生きる者への希望、永遠の命に甦る希望となったと聖書は教えているのです。

 “主はカインに言われた、「弟アベルはどこにいますか。」カインは答えた、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたは呪われてこの土地を離れなければなりません。この土地が口を開けて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地はもはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう。」”(11章10−12節)

 カインは嘘をつきます。自分で殺していながら知らないと言い張り、弱い弟の守り手でなければならないのに、自分は弟の番人ではないと冷酷に言い放つのです。弱いものを無視し、病人を顧みず、悩める者を慰めず、人生に失望している人の心をいたわらない人は、皆カインの末であり、カインの心を持っていると聖書は語っているのです。誘惑に負けて神の戒めを破ったアダムとエバは、責任のなすり合いの醜態を演じ、その子カインは嘘をつき、弱い者を殺すという罪を犯すまでに堕落してしまうのです。神が創造された万物の霊長としての最高傑作は、何と悲しい存在にまで成り下がってしまったことでしょう。

 神の前では嘘は通用しません。殺人の罪を隠すことは出来ません。全てが明らかにされて、カインは言います。「わたしの罪は重くて負いきれません。わたしを見つける者はわたしを殺すでしょう」。カインは罪の重さに気付いたのです。伏せていた顔を神に向けて、赦しと憐れみを求めたのです。罪を悔い改めることにより神の憐れみが与えられるのです。主はカインを見つける者が、誰も彼を殺すことがないように、かれに一つのしるしをつけられた(11章15節)と書かれています。

神の取られた処置は驚くべきものです。地上の放浪者となるという宣告には変わりはありませんが、カインの命は守られるという約束をなさるのです。そして、その約束を裏付けるしるしが与えられたのです。そのしるしがどのようなものかは語られていませんが、それは神の忍耐と憐れみのしるしなのです。人殺しという大罪を犯しながらも、尚も彼の命を守ると神は約束されるのです。
 私の想像が許されるならば、それは十字架のしるしではなかったかと思うのです。カインの罪を贖い、人類の罪を贖うしるしとしての十字架が描かれたのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架のみが、弟殺しの罪を赦しの対象とすることが出来るからです。

 4章12節に、「カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ」とあります。「ノド」とは「さすらい」を意味します。主の前を去るとは神から遠ざかることを意味します。罪を犯す者は神から遠ざかります。カインは弟を殺すことにより、神の戒めに背き、家族の和合を破壊し、耕していた土地を汚します。カインが犯した罪は神との関係、家族の関係、土地すなわち自然との関係をゆがめ、自らを本来あるべき関係から遠ざけてしまうのです。悔い改めたゆえに、神の憐れみを受け、カインは神の守りのしるしを受けて、さすらいの旅を続け、長い放浪が続きます。神様が与えられた良心により、カインは生涯、弟を殺した罪責感から自由になることは出来ません。私たちも人を裏切り、深く傷つけてしまった過去の記憶は消え去ることがないことを知っています。しかし、長い間、十字架を仰いで罪の赦しを求めることによって、罪責感は軽くなるのです。

 アダムとエバ夫婦に子供セツが与えられ、セツの子孫が増えていったことが創世記4章に述べられています。この時点になって、カインはノドの地に住み、そこに町を建てることが許されるのです。
 現代において「町」は都市を意味します。都市には孤独砂漠があり、虚無、空しさがあり、非情な冷たさがあります。創世記4章の悲しい物語の最後に「この時、人々は主の名を呼び始めた」(4:26)とあります。ここに暗黒の物語の中にも神の光を見るのです。砂漠のような都市の中にオアシスが生まれる時は、人々が主の名を呼び始める時です。教会は都市の中のオアシスです。神の名を呼び、神と出会う場所です。神と私たち、人間と人間を真実の愛によって結びつけるものはなんでしょうか。それは十字架です。十字架の縦棒は神と人間の関係を意味します。横棒は人間同士の関係を意味します。その中心にイエス・キリストが立っておられるのです。イエス・キリストによって真実の関係が生まれるのです。使徒パウロは「わたしは、イエスの焼き印を身におびている」(ガラテヤ6:17)と語りました。焼き印はしるしです。牛に所有者の名前が焼き印されるように、私たちはイエス・キリストの焼き印を身に帯びて、恵み深いイエス・キリストに属するものとなり、愛の支配の中で真実の自分を回復し、父なる神と和解し、神の愛を受けて人々へと押し出されてゆくのです。

 今日は、カインについて学びました。カインは私たちの姿とも重なる部分をもっています。私たちは時には激しく怒ります。人を羨み、ねたみます。殺人を考えなくても、たまには人を憎み、時には嘘をつきます。それらはカインの姿と重なる部分です。内側からマグマのように湧き出てくる罪の力を自分だけで処理しようとすると、カインのように門口に待ち構える罪の力に負けて堕落し、寂しくさまよう放浪者となるのです。私たちが放浪の旅から立ち返る場所、それはイエス・キリストのとりなし祈りが注がれている場所、教会です。
 あなたのためにイエス・キリストは今も祈っておられます。













 

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