祈りが答えられないとき
   
  



Message 39                            斎藤剛毅

 今日は祈っても答えが与えられない時、神様に聞き入れてもらえない時は、どんな理由によるのかを最初に考えたいと思います。祈りに答えが与えられない時には、理由があります。第一の理由は、悪い求め方をするからだと聖書は教えます。ヤコブは手紙の中で「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(4章3節)と語ります。快楽とは自己中心的な欲望です。自己中心的欲望を達成するために、祈りを用いて神を動かそうとすることは悪い求め方です。フランスのブルボン王朝時代のある王様は「もう一度罪を犯すことをお許し下さい」と祈ったという逸話があります。許されるはずが無いのにも関わらず、神に許しを求め、自我を押し通そうとすることは、明らかに悪い求め方です。当然、神からの許しは与えられないし、聞き入れられるはずは無いのです。

 祈りが聞き入れられない第二の理由は、父なる神様の深い愛から起こされる、信仰の成長を促すために与えられる様々な試練を避けようとするからです。様々な試練の中で、私たちの信仰を訓練し、強めていくという神様のご計画が背後にある限り、「試練の苦しみを取り除いて下さい」という祈りは無知の祈りであり、聞き入れられない祈りなのです。
 へブル人への手紙は「主なる神は愛する者を訓練し、受け入れる全ての子を鞭打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられるのである。…全ての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(12章6−7、11節)と語ります。

 祈りが答えられない第三の理由は、神に求めたものを、私たちが受け取る用意が出来ていないということがあげられます。別の言葉で言えば、すぐに諦めてしまう、熱心さと粘り強さに欠けているために、求めたものを受け取れない、与えられないということです。旧約聖書に登場するヤコブは、夜を徹して神に祝福を求めて祈り、「祝福を与えてくださるまで、祈りを止めません」と語り、祝福を勝ち得ました(創世記32章22−30節)。創世記では、ヤコブが夜通し神の使いと相撲を取り、祝福を求めたという表現になっています。

 イエス様は失望せずに祈り続けることを、譬えで教えられました。しつこく嘆願を繰り返す一夫人の訴えに、裁判官がたまりかねて、「彼女のためになる裁判をしてやろう。そうすれば私を悩ますことはなくなるであろう」と決心した譬えです(ルカ福音書18章1−8節)。また、すでに寝込んでいる隣人を起こし、粘り強くパンを求め、しきりに願うので、起きあがって必要なものを与えたという譬え話により、イエス様は粘り強い祈りを説いておられるのです(ルカ福音書11章5−10節)。すぐに諦めてしまう祈りは聞き入れられないけれども、熱心に粘り強く祈り続けると、祈りが聞き入れられるという教えです。私たちの祈りには、御言葉に基づく粘り強い、熱心な祈りの要素がみられるでしょうか?ヤコブのように夜を徹して祝福を求める気迫が、私たちの祈りにはあるでしょうか?熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい祈りになってはいないでしょうか?そういう意味で、私たちが神による訓練、試練の苦しみに会うことは良いことなのです。苦しみの中で私たちは熱心に祈るようになるからです。

 イエス様は祈りの人でした。夜を徹して祈り抜いて弟子たちを選ばれました。十字架につかれる前に、ゲッセマネの園で真剣に、血のような汗が流れるほど祈られました。サタン、悪魔との闘いに勝利された秘訣は、祈りによるものでした。使徒パウロも祈りの人でした。地中海沿岸都市で伝道しながら、数々の迫害に会い、苦しめられ、悩まされ、祈り抜いて困難を克服してゆきました。

 パウロは熱心に粘り強く祈り求めたにもかかわらず、祈りが答えられない問題に直面しました。パウロは「肉体のとげ」と呼ぶ病気に苦しめられました。そのことを示す聖書の箇所は、コリント人への第二の手紙12章7−10節です。パウロは語ります。「高慢にならないように、わたしに肉体のとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである。このことについて、わたしは彼を離れさせて下さるようにと、三度も主に祈った。」三度も主に祈ったという言葉の中に、癒して下さいと粘り強く祈りを捧げたことが分かります。しかし、肉体のとげは取り去られなかったのです。願いが聞き入れられなかったのです。

9節の言葉を読むと、粘り強い祈りは、神の言葉を引き出す結果になったことを教えています。「主が言われた、”わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる”」(9節)。パウロは「肉体のとげ」と表現しているのですから、痛みを伴った病気であったと思われます。現代と違って効果ある痛み止めの薬が開発されていない時代でしたから、痛みに捕われて、痛みの解決と同時に癒しを求めていたのです。

しかし、癒しは与えられなかったのですが、痛みを伴う病気を精神的に克服することを可能とした神の言葉をいただいたのです。パウロはなぜこのような苦しい病が与えられたか分からずに苦しんでいました。祈りを通して神の言葉を聞き、パウロは高慢にならないように病気が与えられていることが分かったのです。それ以上に嬉しかったのは、神の力は弱いところに現れるという神様の御言葉でした。この御言葉は、パウロの考え方を変え、積極的思考へと変えたのです。パウロの願いが聞き入れられなかったけれども、父なる神はパウロ自身に答えをお与えになったのです。
パウロは「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時こそ、わたしは強いからである」(9−10節)と述べる人に変えられました。パウロは神様から直接御言葉をいただき、強い忍耐力と苦難に耐えてゆく力を得たのです。神との出会いによる勝利です。パウロは語ります。「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」と。

私の妻は、2010年の暮れに、CTスキャンの結果、癌が予想以上に大きくなっていることを知らされ、「買い物中に、突然倒れる可能性もある」と主治医から言われて、人身事故を起こさぬように自動車運転を止めました。今年の1月28日に癌に対する最先端治療を行っている兵庫県の相生の重粒子線治療センターに、それまでの癌治療資料を携えて行きました。担当医師より、「2002年の再手術の段階で30回の放射線治療を受けているので、重粒子線治療は出来ない」とはっきり言われ、帰宅後、妻は部屋にこもり、主の御言葉を求めて、聖書を読み、ホセア書10章12節の言葉、「今は主を求めるべき時である。主は来て、救いを雨のように、あなたがたに降り注がれる」を与えられ、それは夫婦への御言葉となり、筑紫野南教会の年間主題聖句として選ばれました。

 多くの人々が妻を覚えて祈りを捧げて下さっていることを、ひしひしと感じます。癌細胞の広がりにより、右目の視力を失って何も見えなくなってしまったのですが、不思議に白い色や白黒対象の縞模様が見え始めるという不思議なことが起きたのです。それ以上に感謝なことは、妻の心にイエス・キリストの深い平安が依然と変わらず宿り、主が共におられるという喜びの中で、生かされる日々を精一杯生きて、信仰に生きる者の恵みと喜びを教会や地域の人々に示せることが出来る感謝です。

 2011年2月4日以来、毎晩時間を聖別して、二人の祈りの時をもつことにしました。2012年2月3日に365回目を数え、次に730日をめざしています。昨年5月30日に福岡地方連合の牧師と牧師夫人会が開かれ、その場で二日市教会の加来国生牧師が、斎藤夫人の癌が再々発したことを報告され、祈りを求められました。私が福岡南区の長住教会の牧師時代、献身して神学部に学び、現在野方バプテスト教会の牧師として宣教しておられる泉清隆夫妻がびっくりして翌日お見舞いに見えたのですが、依然と全く変わらずに元気に見える妻が笑顔をもって玄関で出迎えたものですから、びっくりするやら安心するやらの楽しい時を過ごしました。

 晩の祈りの時は、朝のディボーションの時より、熱がこもります。ホセア書10章12節の約束通り、イエス様が強く臨在されて、救いの御業が教会に、日本全国の教会に、日本の民に雨のように注がれますようにと祈り、特に東日本大地震と津波により命を失った多くの魂のために、愛する家族を失った人々のために、家・財産を失った人々のために、放射能を避けて避難している人々のために、支援活動を続ける人々のために祈るとりなしの祈りが、より強められています。妻の癌の悪化なしには、日々夫婦で祈りを合わせることも、多くの人々を覚えて熱い祈りを粘り強く捧げることも無かったと思います。「あなたがたの内に働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神の良しとされるところである」というピリピ2章13節の言葉にも支えられて、救いが雨のように降り注がれることを待ち望み、実現されるように、私たちの粘り強い祈りは続きます。

 もちろん妻の命が一日でも長からんことを願いますが、癌との闘いを通して生きていく日々において、神の栄光を現すことが一番の願いです。私も元気なうちに、礼拝での説教や祈祷会奨励、信徒の病気見舞い、集会への送り迎え等を行い、人の喜ぶことをし、笑顔で人に接し、多くの人々のためにとりなし祈り、イエス様から受けた愛を人々に分け与え、困った人々がいたら自分の出来る範囲で助け、余分のお金は少しでも献金や寄付に回すことを、惜しむ気持ちからではなく、喜んで出来るように祈り、実行して天に宝を積み重ねていくことが、御国に迎え入れられる前に、神の子として求められているように思います。

私も心臓バイパス外科手術を受けて、6年長生きしましたが、要注意患者であることには変わりはありません。激しい動きや長時間の会議の後に十分な休息をとらないと、脈拍数が多くなり、ニトログリセリンを舌下で舐めることは続いています。狭心症の可能性は消えていないので、買い物に一緒に出かかけて、たまにはぐれてしまった時、妻は私がトイレで気分が悪くなり、うずくまっているのではないかと連想し心配するのです。案内所から放送が流されたことがありました。私はエレベーターに乗っていて聞こえず、荷物を車に置いて妻を探して見つけたのですが、余計な心配をしないように携帯電話が離せなくなりました。

 最後にペテロの手紙からの言葉を読んで終わります。「今、しばらくの間は、様々な試練で悩まねばならないかもしれないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰は試されて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに代わるであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なる魂の救いを得ているからである。」(ペテロの第一の手紙1章6−9節)
 













 

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