主よ、語りたまえ われ聞く
   
  



Message 37                            斎藤剛毅

 フランスのボルドー大学の法学部教授、ジャック・エリュール氏はプロテスタントの改革派の信徒神学者ですが、次のように述べています。「現代人はいかに祈るべきかを知らない。いや、それだけではない。彼には祈る意欲もないし、またその必要も感じていない。彼自身の内に祈りが出てくる深い源泉が見つからないのである。私はこの人を良く知っている。彼は私自身なのであるから。」

 現代人は忙しく、心を亡ぼすように生きています。漢字の「忙」は心を亡ぼすと書くのですが、なかなか含蓄のある漢字ですね。現代社会では多くの人々がワークホーリック(働き過ぎ中毒患者)になりつつあり、魂に必要な糧よりも肉体の糧を得るためにあくせく働いているように思います。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉で生きるものである。」と語られたキリストの言葉は不滅の真理なのですが、現代人は多忙の中でその言葉すら思い起こせないでいます。新約聖書の福音書の中に出てくるのですが、キリストの傍でひたすらに話に聞き入っている妹マリアに腹を立て、心を乱しながら妹に手伝うことを求め、接待に忙しく働いた姉のマルタに、キリストは「無くてならないものは多くはない。いや一つだけだ。マリアはそのほうを選んだのだ」と語り、神の言葉に心の耳を傾けることの大切さを説かれたのですが、私たちもマルタと同じように、ただ忙しく生きていて、魂への語りかけを忘れているのではないでしょうか。

 旧約聖書の詩篇46:10に「なんじ静まりて、われの神たるをしるべし。」という神の語りかけがあります。それは神が人間の創造者であり、人間の本質的構造を熟知しておられるので、「人間の生命の生みの親としての神を知って、被造物としての人間はどのような存在として造られたのかを知りなさい」ということなのです。人間の創造者なる神を知ることは人間を知ることなのです。

心静めて聖書や信仰の書物を読み、瞑想し、天地宇宙の創造者である神に思いを集中することをディヴォーションと言います。神への心の集中はなぜ必要なのでしょうか。それは人間の魂が地上の有限なものによっては決して満たされない存在として造られていることを知る道だからです。たとい全世界を手中に収めても、尚も人の心は満足しないのです。永遠なる神の愛が人の魂を満たす時のみ、人間は満足するように造られているのです。進化論的・唯物論的人間観を持つ人は天地宇宙の創造者として神の存在を認めませんし、人の霊的側面を認めませんから、私の語ることは意味を持たないでしょう。

 でも、人が自分の被造物としての存在に気づき、その本質的構造に目覚めて、神の語りかけに心を開き、神との霊的、交わりを回復し、神の愛に包まれる時に、初めて人の心は有限な世界から解放されて、永遠無限の次元へと羽ばたき始めるのです。世界に覆う悲惨な出来事に日々うんざりし、人間不信と人類の未来に対して悲観的になり、信じられるのは自分のみと考えていた寂しい人間観は変えられるのです。

人間生命の根源である神に出会うとき、自己中心的な愛(エロース)より高次元な、他者に自己を与える自己犠牲的神的愛(アガペー)を知り、アガペ−愛に生きる欲求が心に芽生えます。虚無的心の闇は光に包まれ、失望は希望に、不安は平安に変わります。生きる意味と喜び、人生の充実感が虚無感、倦怠感よりも力強く生活の中に鼓動するようになります。神の実在に触れるとき、神の命とのスパークにより、人の中に他者への寛容と善意、仕事への忠実、自分のみの快楽をむさぼることへの自制心が強められてゆきます。神への集中はこのような益を魂にもたらすのです。

ディヴォーションは神のことばである聖書を心静めて読み、神の語りかけに耳を傾けることから始まります。そして、サムエル記上に出てくる少年サムエルのように、「主よ、わたしは聞きます。どうかお語りください。」(3章10節)と祈るようになるのです。神が主人であって、私たちは聴従する僕となるのです。神のご命令に聞き従う心、それが祈り心の基本的姿勢なのです。

多忙の中に生きる人は、まず神より聞くことの大切さを忘れて、「お願いごと」をしてしまうのです。「神さま、このこと、あのことを、お願いします」と色々な願いごとを神に押し付けて、これで安心と、その後は神ご自身のことを忘れて動き回るのです。自分の思うとおりに行かないと、神に文句を言う始末です。そのような態度は自分の思うとおりに神を召使のように動かそうとする傲慢な、罪深い心なのです。

日本の宗教的伝統には、意味の分からないお経の言葉を繰り返すことによって、神仏からご利益を受けようとする「欲深い煩悩的我」が先立つ傾向の祈りがあります。「南無阿弥陀仏」という祈りの真髄は、阿弥陀経の教えを徹底的に聞くことから始まり、阿弥陀仏の無限の慈悲の心を自分のものとし、自分も人に慈悲深く行動できますようにと祈り、精進努力することなのです。しかし、一般大衆の心には念仏によってご利益だけを求める心が根底にあるように思います。「南無妙法蓮華経」においても然りです。お釈迦様の説かれた教えの精髄を法華経の中に見出した日蓮和尚は、その教えを心読し、読んで聴いて、その教えに帰順する誓いの信仰を「ナムミョウホウレンゲキョウ」に込めたのです。それがいつの間にか現世利益を増加させる祈祷の言葉になり下がっている場合が多いのではないでしょうか。

 家政婦を呼んであれこれと家事のことを頼み、安心して買い物に出かける主婦のように、神や仏にお願いして、これで安心と胸をなでおろしながら生きている現代人がいかに多いことでしょう。これは信仰の堕落を意味します。祈りの低俗化は聴くことを忘れて、自分の願いだけを押しつける心から始まるのです。神すらも自分の思い通りに動かそうとする欲望は、神を自分の下僕として仕えさせようとする傲慢不遜な心なのです。悲しいことに、人々はそのことに気がつかないでいます。月刊雑誌『婦人の友』を創刊し、また自由学園を築き上げた羽仁もと子女史は、ディヴォーションを重んじた人でした。彼女は生涯のモットーを次のように書いています。
  「朝起きて聖書を読み、昼は疲れるまで働き、夜は祈りて眠る。」

ドイツの優れた神学者、ボンヘッファーは学者であると共に祈りを重んじた人でした。著書『共に生きる生活』の中で、「クリスチャンは一日の中で、一人でいるための一定の時間を必要とする。それは、次の三つの目的のためである。すなわち、(一)聖書を一人で読み、黙想するため、(二)祈るため、(三)とりなしのためである。これら三つのことは日々の静想の時間でなされなければならない。」と述べています。

 真実のクリスチャンになるために、本物の信仰者となるために、日々神の前に静まり、心を神に集中して、聖書を通して神の語りかけを聴き、応答としての祈りを捧げ、苦しみ悩める人々を覚えてとりなし祈り、また世界の指導者が正義と慈愛の政治を行い、世界平和に貢献できるように祈り努力することが必要です。ボンヘッファーは深い祈りにより、神の御心を実践する神学者でありました。世界中の教会で歌われる優れた讃美歌の詩を残していますので紹介しましょう。

1. 善き力にわれ囲まれ 守り慰められて 世の悩み共にわかち
     新しい日を望もう 
     過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時も さわぎ立つ心しずめみ
     旨に従いゆく 
2. たとい主から差し出される 杯は苦くても 恐れず感謝をこめて
     愛する手から受けよう 
     輝かせよ主のともし火 われらの闇の中に 望みを主の手にゆだね 
     来るべき朝を待とう
 (くりかえし)
    善き力に守られつつ  来るべき時を待とう  夜も朝もいつも神は
    われらと共にいます

詩篇119篇には日々の祈りの模範となる言葉が書かれています。

 主よ、あなたの道をわたしに教えてください。
 わたしは終わりまでこれを守ります。わたしに知恵を与えて下さい。
 わたしはあなたの掟を守り、心をつくしてこれに従います。
 わたしをあなたの戒めの道に導いてください。わたしはそれを喜ぶからです。
 わたしの心をあなたのあかしに傾けさせ不正な利得に傾けさせないで下さい。
 わたしの目をほかに向けて、むなしいものを見させず、
 あなたの道をもって、わたしを生かしてください。(119:33−37)

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。(119:105)
主よ、み言葉に従って、わたしを生きかえらしてください。(119:107)

                                           

 













 

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