死の恐怖を解決する復活の希望
   
  



Message 36                            斎藤剛毅

私は急性心筋梗塞で倒れ、九死に一生を得てから1994年7月以降の歳月は神の恵みの中で与えられている「おまけの歳月」と考えているのです。大学での授業中に急に心臓が重苦しくなり、吐き気もありましたので、15分の特別休憩を取り、男子便所に急いだのですが、10メートルほどの距離が遠く感じられ、取りあえず隣の小教室に入って横たわり、気分が良くなるのを待ったのです。しかし、心臓の痛みに耐えながら何時の間にか気を失ってしまったのでした。

30分経っても現われない私を心配して、学生達が私を捜して小教室に横たわっている私を発見してくれました。校医さんが呼ばれて、異常に血圧が下がっていることが分かり、救急車が呼ばれ、久留米大病院の救命室で緊急手術が行われ、一命を取り留めたものですから、「死とはあのように意識を失い、心臓の動きが止り、冷たくなってゆくものだ」と体験から考えられますので、死は怖いものとは思わないのです。しかし、薬があと何日で無くなると分ると必ず病院に行きますので、まだ「死は怖くなくても、死にたくない」のだと思います。もう少し元気で長生きしたいとは思うのは生への執着でしょうか。

民放のドラマ「ビューティフル・ライフ」をたまたま観ました。木村拓也の演じるカリスマ美容師修平と常盤貴和子の演じた車イスの身体障害者恭子との純愛物語です。自分のような障害者を愛してくれる人は現れないと信じていた恭子ですから修平に対してすぐに心は開きません。しかし、二人は深く愛し合うようになるのですが、恭子は肺にできた腫瘍が原因で死が避けられないと分ります。悲しみの中で、修平は「心の中で恭子がいつまでも生き続ける」と語り、恭子は「夜空にきらめく星のように修平からいっぱい愛をもらったから生きてきてよかった」と語り、修平に手をしっかり握りしめられて死んでゆきます。「愛は死よりも強し」ということを語りかけているようなフィナーレの場面でした。

死は悲しいものですが、現実に訪れます。キリストの十字架上の死は私たちがぞっとするようなものです。両手両足に太い釘が打ち込まれ、横腹は槍で突き刺され、激しい痛みと喉の渇きの中で、死んでゆかれたキリスト。あのような死は誰でも恐れます。神に見捨てられた者の絶望的叫びと思われるような声が響き渡りました。愛してやまなかった弟子たちにも見捨てられた孤独の死でした。

東大の宗教学者、岸本英夫教授はガンを宣告されてから書かれた『死を見つめる心』の中で「私はこの二年間の間に、今更ながら、人間の生命への執着の強さを知った。ひとたび生命が直接の危険にさらされると、人間の心が、どれほどたぎり立ち、たけり狂い、…必死で、それに抵抗するものであるか。私は身をもって感じた」と書いておられます。必死の抵抗も空しく岸本先生はお亡くなりました。

福岡女学院大学の宗教主事、牧村先生がチャペルで話されたのですが、大学生の時、祖母が亡くなり、その悲しみが癒されない間に、小児マヒを患った妹が16才で亡くなったときの衝撃は大きく、人は死ぬものだと悟らされ、死が怖くなったと語られました。死の怖さを忘れようとするかの如くに九大の学生運動にのめり込み、その一方で「人間は死んだらそれで終りだ」という虚無感に捕われ悩んで、その心の空白を持て余していた時、哲学教授の滝沢克己先生に出会い、聖書を読み始め、イエスを死人の中から甦らせた偉大な神の力ある存在と愛を知り、人生の虚無感から自由にされたと述べられました。

イエス様は「眠っている者の初穂として死人の中からよみがえった」とパウロは語ります。私は復活を素直に信じられなくて苦しみました。その苦悩の過程を『神の国をめざす旅人』の中で書きました。18才の時に信仰に入り、本当の意味で疑いが消えたのは35才になってからですから、17年間も不信仰と疑いの中にいたのです。私の中から疑いが消えたのは、イエス・キリストが目には見えない聖霊という霊的存在において、過去・現在・未来ずっと生きておられ、人間に臨在なさり、信じ祈り求める人の心に宿って、イエス様が地上で豊かに実を結ばれた『愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、柔和、忠実、自制』の実を私達の心の中にも実らせて下さることを体験的に信じることができたからです。私にとって復活されたイエス様はその本質を同じくする聖霊なる神ご自身なのです。

クリスチャンの高校教師、難波紘一氏は筋ジストロフィーという難病と闘い、1987年4月に亡くなられましたが、『この生命燃えつきるまで』という書物の中で次のように書いています。「私はやがて苦しみの本番を迎えようとしています。それでは死に勝利する秘訣はどこにあるのでしょうか。…それは私の苦しみに先立って苦しみ抜かれたイエス様を全面的に信頼し、この方に私の全存在をおまかせする以外にないのです。…この体のよみがえりこそ、私のように体が日に日に衰え、滅びていく者にとっては、最大の希望となっているのです。私はこの世ではみじめな最後を迎えなければならず、毎日毎日、肉体の終点に向かって確実に私の病気は進行しています。その滅びゆく自分の肉体が、終りのトランペットの響きと共に栄光の姿に変えられるというその一点を見つめつゝ今、すべての苦難、苦痛を耐え忍びながら、淡々と残された日々を送ってゆく。それが私の喜びであり、私の希望となっていくのです」。

使徒パウロは「肉のからだがあるのだから、霊のからだもある」と語ります。私たちが復活する時は「霊のからだによみがえる」(コリントの信徒への第一の手紙15章44節)のだと述べています。霊の体は患ったり、苦痛を感じたり、事故でその一部を失うようなことはありません。また年老いて死ぬということもありません。たとい70代、80代で死んでも20代から30代の若々しい霊の体に甦ると言われています。イエス様の話では天国では結婚はないようです。私は妻や子供たちも含めて最も美しく輝く皆様一人一人と天国で再会することが楽しみです。霊の体だけではなく私たちの創造を絶する美しい神の国を神は備えていて下さるのです。
 神の国の中心に聖なる愛に輝くイエス様がいらっしゃいます。神の国では神の愛を受けて皆イエス様に似た者に変えられてゆくのです。神様は何と素晴しい方でしょう!神の国に旅すること、神の国で与えられた仕事に励むこと、神の国でより深い真理を学ぶこと、それらは今から私にとっての楽しみなのです。
                                           

 













 

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