祈りの深みへと導かれた私 (その2)
   
  



Message 33                            斎藤剛毅

8.西南学院大学神学部を卒業して、兵庫県の明石市での開拓伝道に派遣され、6年間の苦労を味わいましたが、その「開拓伝道から学んだこと」と題して、NHK教育テレビ「こころの時代」に出演が求められ、金光寿郎さんとの対談形式で一時間の放映が、日本全国に向けてなされましたが、7月下旬に再放送され、多くの人に主の福音を証しする恵みが与えられた事は感謝でありました。

6年間の苦労の中での最大の恵みは、先にお話しましたように、宣教の困難の中で行き詰まり、どん底の苦悩の中で、一方的な恵みにより聖霊の注ぎにあずかり、神の愛の語りかけを聞いて、立ち上がることが出来たことです。その結果、コリント人への第2の手紙3:17の「主は霊である。そして主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、・・栄光から光へと、主と同じ姿に変えられてゆく。これは霊なる主の働きによるのである。」ということを事実として分からせていただきました。

私は主の霊の働きを魂に受けたとき、それまで私を悩まし続けてきた救いの少なさ、礼拝出席の少なさ等の数に捕われていたことから自由になり、牧師として神への愛と隣人への愛が足りないことに悩み、愛さなければならないという律法に促される努力からも自由にされ、主の霊の賜物である愛を受けるままに、主を愛し、隣人を愛し、主から賜わる人々と一緒に、心から賛美の礼拝の時を主に捧げる喜びが与えられたのです。

9.明石時代のもう一つの大きな恵みは、P.T.フォーサオスの『祈りの精神』の訳を仕上げるよう導いていただいたことです。祈っては訳し、訳しつつ祈る努力の結晶ともいうべきものですが、69年の初版出版後、多くの人々に読まれて13刷を重ね、訳をより良くして改訂版の出版後、更に7刷にまで至り、30年経った99年の7月、NHKの金光さんが『祈りの精神』を「心の時代」で高く評価して下さった年、残念ながら品切れになってしまいました。しかし、私自身が著者であるスコットランドの神学者P.T.フォーサオス先生自身から多くのことを教えられたのです。

  P.T.フォーサオスは「祈りの本性」の最初のところで次のように語ります。「最悪の罪は祈らないことである。クリスチャンの中に、誰の目にも明らかな罪、犯罪、言動の不一致をみることは実に意外なことであるが、これは祈らない結果であり、祈らないための罰である。神を真剣に祈り求めない者は神から取り残される。聖徒たちの歴史は、彼らの堕落が祈りによる弛緩、怠慢の結果であり、懲罰であったことを物語っている。」…「祈らない罪はその背後に潜んでいる祈りを欲しない罪を呼び覚まし、祈りの不能という結果を生む。」…「この世に生活をして行くためには、人は労働しなければならないが、魂を養うために、人は祈りに労苦しなければならない。…祈りは力である。祈りは労働である。」

 更にフォーサオスは驚くべきことを語るのです。「神がキリストにおいて人を求められるとき、祈りはすでに始まっているのである。そこで御霊が祈りの力と機能を携えて出で行かれ、人の心を伴って帰られるのである。ここに祈りがある。すなわち、人の祈りは神の祈りに対する応答である。ここに祈りがある。初めに人が神に祈るのではなく、神がまずその一人子を人の罪をあがなうためにお与えになることによって、神がまず祈りたもうのである。キリストの贖罪の心は祈りである。」私は父・御子・御霊なる三位一体なる神の祈りを深く学び、「人は祈る者として創造さているから 祈るのであり、神はご自身の息をもって祈りを引き出されるのである」という教えから、神の息、聖霊によって祈ることの大切さを学んだのです。そして祈りにおける「神の賜物は神ご自身であり、それゆえに、啓示は神の自己贈与にほかならない。…かわいた魂はキリストによって満たされる時、真の自己自身を見出すのである」という教えから、優れた祈りの人々は祈りによって,神ご自身を受けていたのであり、神との深い交わりを通して、真の自分自身を発見していたことを学んだのです。

10.6年間の開拓伝道の後、私はアメリカのサザン・バプテスト神学大学院に5年間学びました。その間に私は自我の砕かれる時を持ちました。自分は少し頭が良いと考える傲慢が砕かれました。10ヶ国語を自由に読み書きする語学的秀才、コンピューター頭脳の人々に接して私は劣等感に捕われました。その苦痛の中で、図書館に住むような生活をして、毎日晩の11時閉館まで残ってがんばり続け、博士課程にまで進めたのは、祈りに対する神の恵みとしかいいようがありません。

 この五年間における最大の恵みの一つは、苦悩の中で第2回目の神の語りかけに預かったことと復活の主イエス様にまみえさせていただいたことでした。このことは、拙著『神の国をめざす旅人』(ヨルダン社、1998年)の中に述べています。この恵みを回想する時、「求めよ、さらば与えられん。捜せ、さらば見出さん。」という主の約束が真実であることを思います。

11.私が5年間の神学校での学びを終えて,帰国の準備を始めました時,私が尊敬しておりました祈りの人,マクスウェル・ギャロット教授が帰米されて心臓の手術をなさったのですが,医師の努力の甲斐なく、帰らぬ人となってしまいました。1974年6月26日のことでありました。このギャロット先生と先にお話致しました熊野清樹がいかに傲慢を砕かれ,へりくだりへの道を神に示されて,祈りが深められ,神に大きく用いられるのですが,お二人のエピソードをお話させていただきたいと思います。(エピソード内容は3月1日のメッセージに載せます。)

12.帰国後、13年間福岡市の南区にある長住バプテスト教会の牧師となり、また12年間非常勤講師として(その間8年は準専任講師)西南学院大学神学部で教会史とバプテスト史を教えて、伝道者養成のために主にお仕えする恵みに浴しました。この期間に主の恵みが大雨のように降り注ぎ、178名の人々が次々とバプテスマを受けたことからも、いかに主が土の器である私を用いてくださったかが分かります。大きな恵みを受け過ぎますと人間は傲慢になります。そこにサタンが働いて、教会内に牧師不信の種がまかれてしまい、私は1987年7月をもって牧師を辞任しました。

13.神様は私に再び、アメリカ留学への道を開いて下さいました。博士論文の指導教授パターソン先生が学長になっておられたジョージタウン大学の宣教師館が1年間空いており、そこに1年間住み、大学で客員教授として、キリスト教と仏教の比較宗教学を教える道を備えてくださったのです。教えながら生活を支え、ライフワークであった長論文を仕上げることも可能となりました。また、ニューヨークのユニオン神学校教授、H.E.フォスディック博士の書かれた祈りに関する名著「祈りの意義」(The Meaning of Prayer)を翻訳して、ヨルダン社からの出版する道も開かれたのです。

ジョージタウンの郊外に出来たトヨタ自動車の大工場により、トヨタ系列の日本企業がケンタッキー州内に工場を建て始め、多くの日本人家族がぞくぞくと州内に住み始めました。私と妻は慣れないアメリカの環境でコミュニケーションや子供の教育、病気で悩む日本人の世話をしながら、日本人伝道の使命が与えられ、レキシントンのイマヌエル・バプテスト教会の小教室を借りて日本語礼拝を始めることになりました。2年目にはレキシントンに借家住宅が与えられ、大学で教えながら伝道したのですが、トヨタ自動車の経理部長夫婦、品質管理部長夫婦、旭ガラス会社の部長夫婦、自動車車体製造の支社長夫人、トヨタの支社長、現在の張トヨタ会長の長男がバプテスマを受けて、日本では考えられないような不思議な神の御業を拝したのです。

 2年目の89年8月、夏休みの終わり頃、私は導かれてバーズタウンのゲッセマネ修道院に3泊4日の沈黙と瞑想の日々を修道僧と共に過ごすことになりました。この修道院はアメリカでは有名な『七重の山』、『瞑想の種子』その他の作品の著作家であり、詩人、文芸評論家でもあったトマス・マートンが深い祈りの生活と文筆活動の時を過ごした所として知られています。私は外来客室に泊まったのですが、1日の生活リズムは修道僧と同じです。この間、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』、十字架の聖ヨハネの『暗夜』、『霊の賛歌』、高橋たか子さんの『神の飛び火』などの霊的書物を読みながら、神との深い霊的交わりを求めた3日目の夕方、私の心に激しい悔い改め促す霊の迫りがあり、私はうめくようにして悔い改め、泣いて罪の赦しを求めましたとき、忽然として禅でいう悟りのようなものが与えられました。それは同時に私の霊の浄化を伴う神秘的体験であり、言葉では表現できない神からの啓示でありました。カトリック教会での修道院で行なわれている念祷( contemplation )と呼ばれる祈りの深みの世界を垣間見させていただいたのです。

14.この体験があった翌月に、妻にガンの告知がありました。私にとってガンの告知は妻の死を意味しました。しかし、私の心の深いところに神に与えられる平安が宿っていたのです。妻もインマヌエルなる主イエス様の臨在を体験し、死の不安を取り去られ、11月に手術を受けて死の危機は去り、今年の11月で手術後20周年を迎えます。89年の9月から11月の手術までの間、私は更に悔い改めを迫られ、自我の砕きを体験致しました。その中で私は「神は心砕けて、へりくだるものと共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」と述べた預言者イザヤの言葉の内容を深く分からせていただいたのです。(その時の体験は『神の国をめざす旅人』の中に書いております。)

15.妻の手術後の傷跡が癒された2月に帰国し、1990年4月から福岡女学院大学で聖書概論やキリスト教教理などを中心に教える教授として招かれました。そして、5年目の6月、急性心筋梗塞で倒れ、久留米大病院で手術を受けて、急死に一生を得たのです。徐々に病状から回復する中で、強く過去の反省が求められました。入信以来、わたしは裸で生まれた自分の上に、何と多くのものを着重ねようとしてきたことでしょうか。高学歴、業績、名誉、地位、財産など、一つずつ自分に着ようと努力してきた自分を示されたのです。人間の救いのために高学歴、業績、名誉、地位、財産などは何一つ条件として求められなかったはずです。しかし、いつのまにか自分の身に着けてきたものを誇りに思うようになっている自分を知ったのです。勿論それらのものが神の祝福の結果として与えられていることもあるのですが、その恵みを全て神の栄光に帰することが心砕けた者のなすべきことなのです。

16.大学で教えて16年が過ぎ去ろうとする2006年の早春に再び心筋梗塞になり、運良く命を取り留めたものの、その時には学院院長という激務を担っていました。造影検査の結果、心臓の冠動脈の2本がかなり危険な状態になっていると判断され、ドクター・ストップがかかり、3月31日をもって学院を辞任・退職しました。そして、同年7月に心臓バイパス外科手術をうけて、左腕から動脈を一本、胸内動脈を一本切り取って、二本の動脈がバイパスとなって、いわばボロボロになっていた冠動脈部分を迂回する血液の流れが新しく造られて、私の命は現在まで保たれたのです。入院して数時間して狭心症発作が生じ、翌日に緊急手術が行われたのですが、もし私の入院が一日でも遅れていたならば、私は死亡する可能性が高かったのです。そこにも神様の全てお見通しの配慮を知ることが出来ました。

17.2007年に入り、健康を徐々に回復し、私は2001年4月から福岡県筑紫野市原田地域に始めていた開拓伝道にボランティア牧師として、月2回の説教や聖餐式、バプテスマ式、冠婚葬祭の責任を負い、現在に至っています。教会員の尊い献金により、2004年に100坪の土地を購入し、2005年には教会堂を建設することが出来ました。今年の4月から10年目に入りますが、筑紫野二日市教会から10人の信徒の株分けから始まり、現在35名ほどになりました。教会員の祈りとヴィジョンを共有しながら、更なる教会成長を目指しています。

18.私は1963年の明石市における開拓伝道に始まり、現在に至るまで7箇所の開拓伝道に関わってきました。今年の3月になり、伝道者として47年が経過することになります。主が許されるならば、50年間は福音宣教を続けていきたいと考えています。
 
終わりに
神の前に心砕き、心を空しくして、心を神に全て明け渡すとき、神はご自身を私たちに与えてくださるのですが、主を日毎に受けてゆくことの難しさを覚えます。カトリック修道院で学んだ「念祷」は、ちょうど水分を吸った薪が炎の中に入れられて、水分が次第に蒸発して煙を上げて薪が乾燥してゆく過程に喩えられるのです。「念祷」を実践すると、人によっては5年から10年以上も続く無味乾燥の、魂における浄化期間を経験するようです。それは試練の期間であり、暗い闇の中に放置されているような、つらいけれども決して主に見捨てられているのではなく、ますます主に近づいていくのですが、それが感覚には感じ取られない魂の苦痛を伴う期間でもあると教えられました。やがて魂の浄化がなされますと大きな祝福が、主の臨在体験が個人個人の異なる体験として示されるというのです。

 健康が回復してゆくなかで、じっと主を待ち望む「待ち」の時が過ぎて行きましたが、なかなか魂が浄化しきれぬ、自己の罪深さを思います。最近になって主イエスのこまやかでデリケートな、しかも深い平安を伴う愛を示されることがありますが、長続きはしません。しかし、人生の終わりに近づくにつれ、主イエス様の愛を心深く感じる時が訪れることを期待して、祈り続けています。 

付記:
 このメッセージは福岡女学院大学教授時代、1999年10月16日、北九州小倉のロイヤル・ホテルで開催された日本国際ギデオン協会の全国大会のバイブル・アワー(一時間)の講師として招待された際に、「へりくだりへの道」と題して語った内容を2010年の時点に合わせて修正・加筆したものです。
 表題も「祈りの深みへと導かれた私」と変えました。45分ほどの長さで語った
ものですから、30分の説教より長くなっています。最後までお読み下されば感謝でございます。














 

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