祈りの深みへと導かれた私 (その1)
   
  



Message 32                            斎藤剛毅

はじめに
 イザヤ書57章15節には次のように述べられております。
 いと高く、いと上なる者,とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者が
こう言われる,「わたしは高く,聖なる所に住み,また心砕けて、へりくだる者と
共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす。」
(口語訳)

 預言者イザヤは天地万物の創造主なる神は、天界で最高の場所、最も聖なる所に住まわれる方であると語ります。またこの偉大な神は驚くべきことに、心砕けている者、へりくだる謙遜な者と共に住むお方だとも語るのです。それは聖なる神がたとえ傲慢な者であっても、傲慢な者の心を砕き,謙遜な心にして,その魂に内に住みたいと願っておられると言うことです。イザヤは更に神は「へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を活かす」と述べるのです。イザヤは謙遜な人の心を重視しています。66章2節には「主は言われる。…わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。」と述べています。神の言葉を畏み、守る者は、神ご自身を恐れ,御言葉に忠実であろうとする者です。
 
今回のメッセージでは、傲慢で、神に背を向けていた私が恵みにより信仰の道に入り,優れた祈りの人との出会いを通して、どのようにして神の前に心砕かれ、へりくだりの道へと導かれたか,またどのようにして深く神と交わり、祈るように導かれたかということを2回に分けて語り、イザヤの語る57章15節の言葉は真実であることを証しさせていただきたいと思います。

1.私は18歳の時にクリスチャンになるまで、自分の志の実現だけを考えていた、神を信じない傲慢な人間でした。しかし、私なりの挫折の中で教会に導かれた時、神の一方的な憐れみにより、聖霊によって神の愛が私の心に注がれる体験をしました。私は心から悔い改めて、神を信じ、信仰の告白をして、バプテスマを受けたのです。今年の9月5日で入信55周年を迎えたのですが,55年の間に,私は祈りの人々によって,信仰の感化を受け,信仰が強められ,祈りが訓練されてきました。

私の心に祈りの姿を初めて強く焼き付けた人は母でした。それは中学生の時です。襖を開けて母の部屋を覗いた時、そこには祈る母の姿がありました。私はそこに聖なるものを感じ、そっと襖をしめたことを思い出します。後に私がクリスチャンになりました時、母は私に語りました。「お母さんは苦しみに遭った時、神様助けてくださいとは祈りません。この苦しみに打ち勝つ力と知恵を与えてくださいと祈るのです。」この教えは私の心に留まって一生離れることはありません。母は八人の子供を育てる中で、数々の苦しみ、悩みを体験しました。しかし、いつも祈りによって苦しみに打ち勝つ力と知恵が与えられ、人の前ではいつもにこやかに柔和な笑みを浮かべることを忘れず、愛をもって人に接した人でした。

2.私は18歳(高校3年生)の9月5日にバプテスマを受け、クリスチャンなりました。一日の初めにまず神の言葉を学び、神の語りかけを聞いて、それから祈る事の大切さを教えてくださった方は、常盤台教会の牧師夫人、松村あき子先生でした。先生は長崎の活水女学院短大で英語学を専攻なさり、その後、アメリカ南部バプテスト女子神学校を一番で卒業した才媛でありました。あき子夫人は毎朝神と共に過ごすディボーションの時をもたれますが、新約聖書をギリシャ語原典で読み、英語の註解書を2、3冊ひもどきながら聖書研究をした後に、神の前に静まり、聖霊に満たされるのを待ち、聖霊に導かれながらとりなし祈る人ということを語って、私に祈りの基本的姿勢を教えてくださいました。

3.私が大学受験前に出会った祈りの人は、アメリカからインド宣教に派遣されたメソディスト派の宣教師スタンレー・ジョーンズ博士でした。1952年2月、伊豆の天城山荘で行われた第一回アシュラム全国大会に出席して、私はジョーンズ博士を通して神の声を聞き、伝道者としての召命を受け、献身の決意をしたのです。ジョーンズ博士は、「聖霊に満たされたとき、あまりにも大きな喜びに圧倒され、部屋の壁にその歓喜の手形を残したいと思ったほどでした。」と語られました。

それがどのような大きな喜びであったかは、私が兵庫県明石市に開拓伝道に出かけ、伝道に行き詰まり苦悩のどん底で、大学時代の恩師、高橋三郎先生をお招きし、特別集会が終わって「主にのみ十字架を負わせまつり」を歌っている間に大波小波のように押し寄せる聖霊の臨みの中で、「わたしはあなたを愛している。伝道者として立ち続けよ。」というお言葉をいただいた時、神の愛に満たされた喜びに溢れ、男泣きに泣き、新たな決心をもって伝道者として立ち上がった経験から分かるのです。

 ジョーンズ博士はある時、イエス様から「一番欲しいものを何か一つ求めよ」と言われたそうです。一日の考慮時間を求めて、答えた一つのものは「主よ、私に祈り心をお与えください」でした。それから生涯を通して、主に対してひたすら祈り求め、主と親しく語る祈り心が与えられたと証しされました。ジョーンズ博士は早朝に起きて、主イエスと語る祈りの人であり、主から霊感と知恵を受け続けて、霊的メッセージを語る人でした。博士との数回の出会いと対話の中で、祈りの人はどのように他の人に感化を与えてゆくのかを学んだのでした。

4.東京の国際基督教大学に入り、私は高橋三郎先生に出会いました。ドイツのマインツ大学で ルター研究で博士論文を書いて帰国されたばかりの、無教会信仰に堅く立った矢内原忠雄先のお弟子さんでしたが、ある時矢内原聖書集会で霊眼が開かれて復活の聖なるイエス様の姿を拝し、涙にむせび泣いた体験の持ち主です。非常に頭の切れる先生でしたから、いつも自分の傲慢と闘い、主の前にへりくだり謙遜に生きることを祈り求め続けておられました。知性が聖霊に用いられることを切に祈って語り、優れた著書を出版し続けられた先生でありました。知性と霊性の調和は祈りによって生じることを教えて下さった先生でした。

5.西南学院大学神学部で、後に院長にもなられたマクスウェル・ギャロット教授に出会いました。この先生は語学の秀才で、ギリシャ語の能力がずば抜けている方でしたが、いつもイエス様と個人的に親しく語っていることを感じさせる先生でした。授業前の祈りのとき、「イエス様」と祈られるとき、あたかも目の前にイエス様の姿を見て、懐かしそうに語りかけているかのような祈りの言葉を聞きました。この先生については後でもう少しお話します。

6.牧会学の講師として集中講義をされた熊野清樹先生のことも祈りの人として
忘れる事は出来ません。東京の目白ヶ丘教会の牧師として長い間伝道・牧会をなさった先生で、日本バプテスト連盟の理事長としての要職も果たされた方ですが、牧会学の時間、ご自分の神学校時代の話をされました。ある春休みに一週間分の食料と水を携えて山小屋にこもって、聖書を読み祈りに専念されたそうです。数日が経ってある晩、「清樹、清樹」という自分の名前を呼ぶ声を聞かれたそうです。今ごろわざわざ自分を訪ねてきた人は誰だろうと小屋の戸を開けてみても誰もいません。また声が聞こえるので戸を開けても誰もいません。

その時、少年サムエルが主の呼びかけるのを聞いて、「しもべは聞きます。主よ、お話下さい」と答えたことを思い出して(サムエル記上3:2-14)、もう一度声を聞いた時、「しもべは聞きます。主よ、お話下さい。」と答えたそうです。その時、主イエス様は「私は淋しい。私は自分の命を捨てるほどに人々を愛しているのに、その愛に応えて、真実に自分を愛する者は少ないので淋しい」とおっしゃったそうです。

この話は決して忘れられない体験談として私の心に残っています。それ以来、どうしたら「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛する」ことができるか、どうしたらイエス様ご自身が喜ばれるような交わりと対話が祈りにおいて可能であるかが、私の課題として与えられたのです。

7.神学生の仲間の一人に猪城淳という人がおりまして、私と親しい友となった人
ですが、この方は私より年輩で、呉教会でリバイバルを起こされた田中種介先生の
お弟子、河野宏範先生の教え子で、「アサ会」という宗派に属していたのですが、私に「アーメンの祈り」を教えて下さったのです。イエス様が「アーメン、アーメン、あなた方に言う」と語られたアーメンは「よくよくあなたがたに言う」と訳されていますが、猪城淳さんは「イエス様のアーメンは、無差別平等に全ての人々に注がれ届いている神の愛を大肯定し、賛美なさったアーメンで、当時宗教家達から天刑病と考えられ、神の恵みを拒絶された病と教えられた、重い皮膚病を罹った病人にも等しく臨んでいる神の愛を肯定・賛美されたアーメンだったと言うのです。

しかも神の自由は絶対で、癒すも、癒さないも、神の自由で、ただ御旨の行われる神の深いご意志をアーメンと賛美なさったのだ」と語られました。このアーメン解釈は、後に牧師になった私の、病人に対する祈りの基本になったのです。熱烈に病人のために祈って、神のいやしを求めるのではなく、言葉で病人のために祈りつつも、心の中で「アーメン、アーメン」と唱えていることがありました。その時は癒すも癒さぬも神のご自由。でも、神の愛の厳然たる事実を肯定・賛美して、私の心は自由である体験をしたのでした。

(2月15日のメッセージに「祈りの深みに導かれた私」(その2)を載せます。)














 

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