孤独からの開放 〜取税人ザアカイの場合〜
   
  



Message 31                            斎藤剛毅

紀元6年、ユダヤの国はローマの直轄地となり、ローマから派遣された総督が皇帝に納める不動産税と住民税の外に、徴税所を設けて商品の移動に対する関税の取り立てを命じたのです。汗水たらして労働して得た収入から税金が差し引かれることは、ユダヤ人にとっては屈辱的なことでしたから、ユダヤの商人たちは強い反ローマ感情を持ちました。徴税所での課税にはユダヤ人による請負制度が認められていました。ザアカイは請負業の責任者だったのです。税金を取る者の中には不正な取り立てをし、賄賂(わいろ)次第で税を軽くし、また重くする悪徳人間もいましたから、取税人と呼ばれる彼らは、「ローマ役人のかじ棒担ぎ、盗人、売国奴」などと言われ、人々から嫌われ、憎まれておりました。

ザアカイは好きで取税人になったのではないのです。しかし税金の取り立て人という理由だけで、人々から温かい交わりを拒まれて苦しみました。彼は人から重んじられ、喜ばれているという誇りをもつことはできず、社会的に仲間はずれにされているという思いで悩み、孤独でした。社会から認められない人は自分の存在価値を何とか認めさせようとします。ザアカイは立派な家に住み、金持ちになり、召使いもいる身分になりましたが、世間の人々はザアカイを能力ある人と認めるどころか、陰で不正を行って富を得た人間とみなし、ますます温かい人の心から遠ざけられ、彼の孤独の闇は更に深くなり、淋しさとやりきれなさが心に広がってゆきました。ザアカイの心から生き甲斐が失われてゆき、未来に希望をもてなくなって、不安と重苦しさが増していたのです。

芥川龍之介の初期の作品に『孤独地獄』いうのがあります。その小説の中で、芥川は主人公に次のように語らせています。「私は二、三年前から孤独地獄に堕ちた。一切のことが永続した興味を与えない。だから、いつも一つのことから他のことを追って生きている。それでも地獄は去ってゆかない。転々としてその日、その日の苦しみを忘れるような生活をしてゆく。そして、しまいにこれ以上苦しくなれば、死んでしまうより他はない。昔は苦しみながらも死ぬのが嫌だった。今では……。」この作品の終わりに、芥川は「或る意味では自分も又孤独地獄に苦しめられている一人である。」と書いているのです。芥川龍之介は最後には聖書を一冊枕元において自殺しました。

太宰治の作品に「無限奈落」というのがありますが、その中に登場する女性も孤独で苦しんでいます。「彼女は本当に独りぼっちであった。……うすら寒い布団の中で、細長い両足をこごめ、背を丸くし、両手の指を様々に組んではほどき、組んではほどきしながら、彼女は身に迫る孤独感をものすごい激しさで感じているのであった。これは
どうしたことだ。彼女は孤独地獄にみんごと落ちてしまったではないか。」太宰治自身孤独に苦しんだ人でした。彼は『人間失格』を書いた後に自死を選びました。

 芥川も太宰も鋭い感性の持ち主であり、また魂の深みを洞察する人でした。共に孤独と闘い、苦しみ、神を求めた人たちでした。しかし、信仰告白までには至らず、悲しいことに、地上の旅路に自ら終止符を打ってしまいました。しかし、作品の中で共に訴えていることは、人間という存在は人と人との深いつながりを持たずに孤立してしまうと、孤独地獄に落ちてしまうということです。二人の作家はキリストの教えや生き方に興味をもったのですが、キリストに自分を委ねきることが出来なかったのです。興味とは英語でINTERESTと書きます。これはラテン語のINTER−ESSEから出来た語、即ち中間の−存在という意味です。自分が中間者、傍観者として立つことを意味するのです。芥川も太宰も中間者、傍観者としての立場からもう一歩踏み出してキリストに自分の心を委ねることが出来ずに彼らの生涯を終えたのです。

ザアイカイも孤独地獄を味わい悩みました。孤独と淋しい悲しみの中で、ザアカイは思いました。「人々の冷たい視線を浴びながら、自分は空しく惨めな思いを引きずって死ぬまで生きてゆかねばならないのか。自分に心の友が欲しい。生きる力、希望、生き甲斐を与えてくれる人、一人の人間として温かく接してくれる人が欲しい。この世に生まれてきて良かったと心から思えるような道に導いてくれる人が欲しい。」

そんなある日、世の人々から退けられ見捨てられた人の友となられたイエス様がエリコの町にやって来られるという話を聞いたのです。ひょっとするとこの方は泥沼に落ち込んでどうすることも出来ない自分の手を掴んで再び大地に立たせてくださる方かもしれない。蟻地獄から這い上がれない蟻のような自分をこの方は救い出して下さるかもしれないと思うと、居ても立ってもおられず、一目でも見ようと背が低かったザアカイは道ばたのいちぢく桑の木に登って、イエス様が近づかれるのを待ったのです。

イエス様は群集にもまれながらも深い憂いがありました。イエス様が心を注いでいるものと群集が求めているものとは全く別であったからです。イエス様にとっては父なる神の御心を行うことと、本当の救いを求めている人を救うことが関心の全てでした。しかし、群集にとっては父なる神以外のことが関心の対象です。群集はイエスを一目見たいという好奇心を満足させるために集まって来ています。群衆の心を卓見されているイエス様は孤独からの開放を心から求めているザアカイの目と出会ったのです。

神のあわれみと救いを求めているザアカイの心を洞察なさったイエス様は立ち止まり、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにする。」(ルカによる福音書19章5節)と言われたのです。ここに何としてでもこの男の魂を救わねばならないというイエス様の熱い決意が感じ取られます。ザアカイは愛と信頼のこもった言葉で呼ばれることは久しくありませんでした。なんと「ザアカイよ」と自分の名前で呼ばれたことに感動し、彼は急いで下りて、喜んでイエス様を自分の家に招き入れました。

ザアカイは今迄の自分の人生を語りました。自分のどこが間違っていたのかを尋ねました。主イエス様は次のように説かれたと思います。天地の造り主である父なる神様は人に軽んじられ、周囲の人々から退けられている人をも深く愛しておられること、善人にも悪人にも隔てなく雨を降らせ、日光を与えて下さる方であること、人に認められ、愛されるためには自分から人への憐れみの心、与える慈しみの心を抱き、人を愛することが重要であること、金を貪欲に貯めることよりも貧しい者に分け与えることの大切さを話されました。そして、まず自分が神に恨みを抱いて人を憎んでいた罪を悔い改めて、赦しを乞い、神の愛と赦しを受け入れ、神の愛の中に自分の存在価値を見い出すこと、心入れ替え真実な人間になって、はじめて真実な友が与えられること、偉くなって人に仕えさせるのではなく、人に仕える精神を養うことの大切さを説かれたのです。

ザアカイはイエス様の話によって心の目が開かれました。今まで自分を憎む周囲の人々に、またユダヤ教の神にも恨みを抱き、強い不満を持っていたことを反省しました。何とか人に認められたい一心でお金を貯めて富める者となり、自分の存在感を高めることが全てであったザアカイは、イエス様との出会いによって価値観が一変してしまったのです。神の前に罪深い存在とみなされていた取税人をも愛して下さる神の愛と恵みを、イエス様から溢れ出るザアカイへの愛と優しさから実感したのです。イエス様の愛の中でザアカイを悩ましていた孤独は消え去りました。彼はお金というものは人に喜ばれることのために用いてこそ神の祝福が受けられることを知ります。そして、ザアカイは「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧しい人々に施します。また、もし誰かから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します。」と語りました。ザアカイは悔い改めの実を結ぶのです。それまで決して手放すことが無かった財産を貧しい人のために手放す決心をするのです。これは執着からの、貪欲からの解放を意味します。また罪責感からの解放を意味します。イス様を自分の家に迎え入れ、自分の心にイエス様の言葉を受け入れた時に、ザアカイの心に救いが生じたのでした。

ザアカイの悔い改めと共に、腫れ物の口が開いて、貧しい人に心を閉じていた自己中心とお金が第一という罪の膿が流れ出て、孤独と失望に落ち込んでいた心にさわやかな喜びと共に主イエス様と出会い、真実に愛された感謝が溢れたのです。ザアカイの回心を見て、イエス様はおっしゃいました、「今日、救いがこの家に来た。…人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカによる福音書 19章9〜19節)。

救いは心を砕き、謙虚になって自分の愚かさ、与える愛を無視して生きてきた自分の自己中心的な罪深さを認め、素直に悔い改めて神の赦しを乞い、神の赦しの愛を信じることによって生じます。ザアカイは孤独から解放され、神の愛の中に自己の存在価値と生きる意味を見い出すことが出来たのです。

このザアカイの回心物語は、新約聖書のルカによる福音書19章1−10節に書かれています。














 

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