死後における神の裁きの基準 〜キューブラー・ロス精神医師が語る臨死体験者の証し〜     



Message 19             斎藤剛毅

多くの日本人は、子供の死に対する不安を取り除くために「死んだ人の魂は天国に帰っていくのよ」と、語ります。しかし、自分の死後の事に関しては殆んど無関心であるようです。「死後のことは良く分からない。多分、死んだら無になるのだろう」と考える人も多いと思います。かつて、日本人になじみ深かった仏教の極楽と地獄図も、昔の人が信じていたものであり、善を勧め、悪を懲らしめる「勧善懲悪」の教えのために描かれたと考え、日本人の多くは、来世よりもこの世に長く生きることに強い関心を抱きます。死後に関しても、「死んでみなければ分からない」と考えます。死んで後に、この世でどのように生きたかを反省させられ、神様による裁きがなされることなど真剣に考える人はとても少ないように思います。

イエス様は「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない」(マタイ福音書7章14節)と語られました。そして、「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていく者は多い」(マタイ福音書7章13節)と滅びる人の多いことを語り、警告しておられます。2000年前も多くの人々はイエス様の教えに、「笛吹けど踊らず」の態度を示しました。

今日は私たちが死んだらどうなるのか、死後に神様から裁かれるならば、その裁きの基準はどのようなものかについて一緒に考えたいと思います。
死後についての手引書の一番大切なものは勿論聖書です。私は死後についての参考書として、インドの伝道者、サンダー・シングの書いた『霊界の黙示』とスエーデンのクリスチャン物理学者であり、霊能者でもあったスエーデンボルグの著書、『天界と地獄』などを注意深く読んできました。

今日はそれらに加えて、エリザベス・キューブラー・ロス先生が著述した“The Wheel of Life”(『人生は廻る輪のように』、角川書店、1998年)を紹介します。この書物は「死の概念を変えた精神医師による今世紀最高の書」と評価されたものです。この本は、死後の神の裁きの基準について見事に語っているのです。
エリザベス・キューブラー・ロス(Elizabeth Kubler- Ross)は1926年生まれの医学博士であり、精神科医師です。末期医療(ターミナルケア)、死の科学(サナトロジ−)の分野でのパイオニア的存在としてアメリカで活躍した方です。癌その他の病気の末期患者と数多く関わり、研究成果をまとめた著書『死の瞬間』(日本語訳は読売出版社より)は世界のロングセラーとなりました。

 キューブラー・ロス先生は46歳になってから、「生から死への移行ワークショップ」という企画を始めました。それは死についての講義、瀕死の患者との面接、Q&Aセッション、過去に溜め込んだ怒りと涙などを一対一で聞いて、患者が悩みを克服する手助けをするというものですが、1970年代には世界中の悩みをかかえる2万人の患者と面接したと述べています。

興味深いことに、患者の中には臨死体験者が多く含まれておりました。それまでのロス先生は死後の世界など全く信じていなかったのですが、データが増えるにつれて、臨死体験の証言は偶然の一致でも幻覚でもないことを確信するようになるのです。『人生は廻る輪のように』の中で、多くの証言データをまとめて書いた章があります。そこには臨死体験者の証言の共通点が次のように述べられています。「かつて愛した人、愛された人たちと再会し、またガイド役の存在と出会った後、彼らは素晴らしい場所に到達して、もう元の世界には帰りたくないと感じる。ところが、そこで誰かの声を聞くことになる。まだその時ではないという意味の声を全ての人が聞いていたのである。」註@

 このような新しい発見の数々から、ロス先生は死についての定義は、肉体の死を超越したところまで踏み込まなければならないという結論に至りました。それは、肉体以外の魂や霊魂といったもの、生存以上の何か、死後も連続する何かを吟味しなければならないということでした。そして、ロス先生は、「死の床にある患者は五つの段階を経過していく」と語ります。「地球に生まれてきて、与えられた宿題を全部済ませたら、もう体を脱ぎ捨ててもいいのです。蝶がさなぎから飛び立つように、体は魂を包んでいる殻なのです」という声を聞くプロセスを経て、…それから人生最大の経験をすることになるというのです。

「死因が交通事故であろうと癌であろうと、その経験は変らず、死の経験には苦痛も、恐れも、不安も、悲しみもなく、あるのはただ、蝶へと変容して行くときの温かさと静けさだけだ」と述べています。

 死の床にある患者が経過していく五つの段階とは、どのようなものでしょうか?第一段階は、蝶がさなぎから飛び立つように、霊魂が肉体からふわっと抜け出して空中に浮かび上がり、手術室における死、自動車事故、自殺など死因のいかんにも関わらず、全員が明瞭な意識を持ち、自分が体外離脱をしている事実にはっきり気付いており、その場にいる人たちの会話が聞こえているというのです。第一段階で経験するもう一つの特徴は、「完全性」です。全盲の人が見えるようになっており、全身麻痺の人が軽々と動けるようになっており、空中で小躍りする大きな喜びを感じるので、臨死体験から生還した女性は鬱状態になってしまったと書かれています。

 第二の段階は、肉体をあとにして、別の次元に入る段階です。ロス先生が面接した臨死体験者全員が、この段階では守護天使、ガイド、子供たちには遊び友達に出会ったことを覚えており、包むような温かい愛で慰められ、先立った両親、祖父母、親戚、友人達の姿を見せてくれるので、臨死体験から生還した人々は、嬉しい再会、積もる話の交換、抱擁などとして記憶されるので、死は一人孤独に死んでいくのではないと知って、安心する段階だというのです。

 第三の段階では、人によってイメージは様々ですが、守護天使に導かれてトンネル、橋、山の小道、綺麗な川などを通って、まぶしい光を目撃するのです。守護天使の導きで光に近づいていきますと、その光は温かいエネルギー、無条件の愛であることが分かってくるのです。その愛は途方もなく強く、圧倒的であり、…その光こそが宇宙のエネルギーの究極の本源であり、それを神と呼ぶ人、キリストあるはブッダと呼ぶ人もいるけれども、共通していることは、あらゆる愛の中でも最も純粋な愛であったと生還者達は報告していることだとロス先生は語ります。註A

 第四の段階は、非常に重要な段階です。なぜならこの段階で自分の人生の全てを振り返ることになるからです。ロス先生の言葉を借りますと、「走馬灯のように生涯の回顧を行うのはこの段階であり、その人が生前に行った全ての意思決定、行動、行動の範囲が逐一明らかにされる。自分のとった行動が、全く知らない人をも含めて他者にどんな影響を与えたのかが、手にとるように分かってくる。あらゆる人の命がつながりあい、全ての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響を及ぼしている様を、目の前に見せられる。天国か地獄のような場所だ、と私は思った。たぶん、その両方なのだろう。」註B

 ロス先生は更に語ります。「生還者の報告によれば、どんな奉仕をしてきたか?と問われるのはこの段階である。これほど厳しい問いはない。生前に最高の選択をしたかどうかを問われるのだ。その問いに直面し、最後に分かるのは、人生から教訓を学んでいようといまいと、最終的には無条件の愛を身につけなければならないということである。」註C

 私はこのところを読んでイエス・キリストがすべての国民を集めて右と左に分けて裁かれる時の基準を思い出すのです。その基準とはイエス様の兄弟姉妹たちである人々に(いと小さき者に)愛をもって接したか、無条件の愛を与えたか、どのような奉仕をしてきたかというものです。(マタイによる福音書25章31−46節参照)イエス様ご自身が言われました。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためである。また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マタイによる福音書20章28節)

霊界の光の根源であり、無条件の愛の究極的存在こそがイエス・キリストであり、地上における人間の最高の模範がイエス様によって示されたと聖書は語るのです。ですから使徒パウロも、「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」(ガラテヤ人への手紙5章13節)と語るのです。「間違ってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠の命を刈り取るであろう」(ガラテヤ人への手紙6章7−8節)

使徒パウロは、ユダヤ教の教えの影響を受けて、肉体と精神と霊とは密接な関係で繋がっていると考えていましたので、死ぬと人間の霊は肉体を脱いで裸の状態になるので、世の終わりのラッパが鳴り響くまで眠り続けると語ります。そして、世の終末と共にキリストが再臨なさり、すべての民を裁かれるときに、クリスチャンたちは霊の体を与えられ、復活すると説きました。

キューブラー・ロス先生は臨死体験者の多くの証言から得たデータにより、死が訪れて肉体から離脱した霊は、眠りにつくのではなく、明瞭な意識を持ったまま地上に残された人々の姿を見たり、声を聞き、しかも、肉体にあった欠陥は無くなって、完全な霊の体になっていると語るのです。そのあとに守護天使に導かれて、無条件の愛の本源である光に出会い、それから自分の地上における自由意志に基づく自分の行動のすべてが映し出されて、人生を回顧する機会が与えられるというのです。それは明らかに天国か地獄かに振り分けられる審判のようでもあります。神の裁きの基準となるものは何か?それはどのくらい人々に愛をもって奉仕し、純粋な愛を与えてきたかだというのです。

「人の救われるのは行いではなく、信仰による」と説いているパウロの教えに安住してしまう私たちですが、信仰から生まれる愛、神様から与えられる無条件の愛を如何に人々に分かち合ってきたかが死んだ後に問われるということを忘れてはならないと思うのです。日毎に聖書を開き、神様の語りかけを聞き、祈りを通して神の愛と赦しを受け、隣人を愛してゆく力をいただき、人々への愛と奉仕の実践を積み重ねてゆくことの大切さを教えられるのです。

 私たちが熟睡して眠る時、翌朝までの時間の経過は意識の中では消えてしまいます。死の眠りによって、その後に何千年、何万年が過ぎても、眠りにおいて時間はゼロになります。ですから、世の終わりが来て、キリストが再臨して、霊の体を与えられて復活する場合と、死んで直ぐに終末を迎えるという理解とは、とても近い説になるのです。何れにせよ、死んだ後に無限の愛に輝くキリストにまみえ、主を拝するという喜びはクリスチャンに与えられているので感謝です。

最後に、キューブラー・ロス先生の書物『人生は廻る輪のように』の終りに語っている宝石のような美しい言葉を読んで、今日の説教を終ります。
「学ぶために地球に送られてきた私たちが、学びのテストに合格した時、卒業が許される。…魂を閉じ込めている肉体を脱ぎ捨てることが許され、私たちは魂を解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配も無くなり…美しい蝶のように自由に羽ばたき、神の家に帰っていく。…そこでは決して一人になることは無く、私たちは成長を続け、歌い、踊る。愛した人の側にいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛に包まれて暮らす。…

 いのちの唯一の目的は成長することにある。究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある。地球には食べるものがない人たちが無数にいる。住む家の無い人たちが無数にいる。無数の人たちが虐待されている。精神や身体の障害と闘っている人たちが無数にいる。毎日、理解と慈悲を必要とする人たちが増えている。その人たちに耳を傾けて欲しい。…人生の最高の報酬は、助けを必要としている人たちに対して心を開くことから得られるのだ。最大の祝福はつねに助けることから生まれる。…人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のように見える全ての試練は、実際には神からの賜物である。それらは成長の機会であり、成長こそが命のただ一つの目的なのだ。…

 一人で死んでいく人はいない。誰もが想像をこえるほど大きなものに愛されている。誰もが祝福され、導かれている。…地球に生まれてきた者の使命さえ果たしていれば、この世の最後の日にも、自分の人生を祝福することができる。一番難しいのは無条件の愛を身につけることだ。死は怖くない。死は人生でもっとも素晴らしい経験にもなりうる。そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。… どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛をあたえようとこころがけて欲しい。それが私の願いだ。永遠に生きるのは愛だけなのだから。」

註@ エリザベス・キューブラー・ロス著“The Wheel of Life”(『人生は廻る輪のように』、角川書店、1998年)、246頁。 註A『同掲書』、250頁。
註B『同掲書』、251頁。 註C『同掲書』、252頁。














 

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