成功と富の中での誘惑     



Message 18             斎藤剛毅

誘惑には、色々なものがありますが、今日は「成功と富の中での誘惑」というテーマでお話したいと思います。
『幸福論』或は『眠られぬ夜のために』などの作品によって有名なカール・ヒルティは次のように語りました。「『人間は成功することによって誘惑される』という言葉は、正しい言葉である。(成功による)賞賛は、人の内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を引き出す。どちらも、成功がなければ隠れたままでいただろう。しかし成功によって、それらは兆しがあるかぎり大きくなってくる。」@ 

成功しほめられると、人はすぐに傲慢天狗になり、富みを得ると、名声や名誉欲などを更に求める我欲が頭をもたげてくるというヒルティの言葉は、人が心に刻みつけておかねばならない知恵の言葉だと思います。聖書は傲慢を戒めて謙遜を尊び、自己中心的な我欲を罪深い執着心とみなしています。人は謙遜であろうと努力し、法の限度を越えるような我欲を押さえようとします。そのような努力にもかかわらず、人は成功すると、心が誘惑に負けて、自分の限度を越えて傲慢になり、我欲を強めてしまう例を聖書は語ります。

新約聖書のマタイによる福音書の中に、イエス様の弟子となったゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネに関する注目すべき記事が述べられています。彼らはイエス様に愛された弟子たちでしたが、主イエスの名声がイスラエルに高まるまで、彼らの母親は息子たちの弟子入りを余り喜ばなかったと思われます。しかし、イエス様が有名人となり、息子たちが弟子であることを、人々からうらやましがられ、また誉められたりしますと、彼女の中に隠れていた我欲が頭をもたげてくるのです。彼女は二人の息子と共に、イエス様にお願いします。「私のこの息子たちがあなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、お言葉を下さい。」(マタイ20・20ー23) 神の御国で息子たちが右大臣と左大臣のような地位につけるように、今から約束の言葉が欲しいのです。・・ これが彼女の願いだったのです。しかし、彼らは「偉くなりたいと思う者は、仕える人とならねばならない。」とイエス様にたしなめられてしまいました。人々から成功者とみなされ、人からほめられ始めますと、それまで隠れていた我欲が現われてくる典型的例がイエス様の弟子たちとその母に見られるのです。(マルコによる福音書には、イエス様への願いは、ヨハネとヤコブ自身によるものであったことが書かれています。マタイはこの不名誉な発言を二人の母親に帰して、弟子の名誉を傷つけまいとしたと思われます。)

弟子のシモン・ペテロは、十二弟子の中でも、一番弟子といわれた人でした。イエス様が「あなたはペテロ(岩の意)である。私はこの岩に上に、私の教会を建てよう」(マタイ福音書16:18)とおっしゃったほどです。このような名誉に輝きながら、彼は自分の中に隠されている恐るべき罪を自覚していませんでした。その隠されている罪があらわにされる時は、サタンと呼ばれている神の敵対者、人間への誘惑者が力強く働きかける時なのです。イエス様はやがて自分が十字架に向かう数々の苦難と死を洞察なさって、最後の晩餐を弟子たちと共に取られた時、一番弟子と自負しているシモンにおっしゃいました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された」(ルカによる福音書23:31)。                         
 私たちがサタンによってふるいにかけられるということは、私たちを罪に誘うサタンから誘惑され、悩まされ、誘惑の中で、隠されていた弱さや罪があらわにされ、自分の信仰は大丈夫という自負心が根底から揺さぶられ、神なしに自分の力で罪に勝てるという思い上がり、傲慢が砕かれるという痛い試練に会うことなのです。シモン・ペテロは「私は獄にでも、また死に至るまでもあなたと一緒に行く覚悟です。」と豪語するのですが、「明朝、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と予言されてしまいます。そして予言通りに主を否定して裏切り、彼は自分の弱さを知って泣いたのでした。

ヤコブは手紙の中で、次のように語りました。「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神から来たものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に 引かれ、誘われるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。」(ヤコブの手紙1:13−16)「人が誘惑に陥るのは、我欲に引かれるからだ」とヤコブは断言しています。                
成功の中での誘惑の例を新約聖書に見てきましたが、旧約聖書を調べてみますと、更に多くの例を見出すことができます。アブラハムと甥のロトは、神に導かれて、故郷を離れてベテルに住み、やがて一緒に住めなくなるほど家畜が増え、財宝にも恵まれるように なりますと、お互いの一族の平和のために、別々の場所に住むことになりました。場所の選択において、ロトは道徳的に乱れたソドムとゴモラの町に近い場所を選んだのです。ロトは富み栄えることによって、自分の中に潜んでいた貪欲に負け、神を畏れ快楽を慎む生活よりも、快楽と欲望充足の日々を選んだのです。彼は罪の快楽におぼれ、やがて神の裁きの火が最悪の罪深い町に下る前に、家族と共に命からがら逃れ、助かるのですが、ロトの妻は快楽の町に残してきた財宝と快楽の生活に未練を強く残し、後ろを振り返ったため、天からの硫黄の火を受けて塩の柱となってしまったと書かれています。この記事は後世の人々への警告として留められています。(創世記19章)

アブラハムの孫であるエサウとヤコブは双子の兄弟でした。わずかな時間差で後に生まれたばかりに弟となり、それゆえに家督の権や財産を譲り受けることが出来ないことに、弟のヤコブは強い不満を持っていました。またヤコブは母からの偏愛を受けていましたので、兄以上に誉められて傲慢になり、家督の権を受け継ぐのは自分であるべきだという思いになってゆくのです。安定した裕福な生活の中で、ヤコブは兄の家督の権や父からの祝福を奪ってやろうという罪深い計画を思い巡らすようになりました。やがて心に隠されていた貪欲の罪があらわにされる時が来ました。彼は父や兄を欺き、家督の権と祝福を奪ってしまうのですが、兄の殺意を知って、身の安全を図り、全てを失って叔父のところへ逃げてゆくのです。

ヤコブの子ヨセフも、腹違いの兄たちによってひどい目に遭わされ、エジプトに奴隷として売られてしまいます。それは兄たちへの彼の傲慢な行為の結果なのですが、彼が後にエジプトの大臣の地位についた時、カナンの地に飢饉が訪れ、兄弟たちが自分と知らずに宮殿を訪れ、穀物を分けてくれるように頼むのを見た時、心に隠れていた兄弟たちへの
恨みが表れてきて、何度も難問を浴びせかけて彼等を悩ませたのです。

イスラエルで初めて王となったサウルは、自分が落ち目になり、部下の将軍ダビデの名声が高まってゆきますと、彼の中に隠れていた激しい嫉妬の炎が燃えだし、ダビデの命を執拗に求めて、彼を亡き者にしようとしました。ダビデが王位につきますと、彼は王宮から見えた美しい女性の水浴の姿に魅せられ、彼女を王宮に呼び寄せ、やがて彼女を妊娠させてしまいます。ダビデの中に眠り、隠れていた好色と姦淫の罪の力が彼を捕らえ、彼の中を嵐のように吹き荒れ、王としての理性力も狂わして、彼は人妻を身ごもらすという恐ろしい罪を犯してしまうのです。それに加えて、罪の発覚を恐れて、彼女の夫を戦死させるという殺人の罪をも重ねてしまうのです。王という権威ある地位にいて、ダビデはこのような誘惑に負けてしまったのです。

ダビデの子ソロモンは、巨大な富を所有する王となり、富みと名声の中で、多くの妻、側室たちの愛に溺れてゆきます。彼が年老いた時、側室たちが彼の心を異教の神に従わせて、真の神から彼の心を引き離してしまいます。列王記上11:3には「ソロモンには妻七百人、そばめ三百人があった」とありますが、ソロモンがどんなに優れた知恵者であっても、女性の愛に溺れてしまう弱さがあったことが分かります。富みと権力を手中に収めた成功の中で、色恋に溺れ、偶像神に心を奪われ、後に国を二分してしまうという悲劇を生み出していったのがソロモンでした。

「人は成功することによって誘惑される。成功による賞賛によって、人は傲慢になり、富によって我欲を顕す」ということは、いつの時代にも当てはまる事実であり、私たちの心に繰り返し生じることなのです。私たちはそのことを覚え、たとえ人から誉められ、 成功したと言われても、傲慢や罪深い我欲の誘惑に陥らないように、祈り続けることの 大切さを、私たちは教えられるのです。

なぜなら、富と成功の中での誘惑は、実に激しく、真剣な祈りなくしてはとても勝利できないことを、イエス様が語っておられるからです。「あなたがたは誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」と言われたイエス様。そして、ゲッセマネの園で、血のような汗を滴らせながら、サタンと壮絶な戦いをしつつ、真剣に祈られたイエス様。イエス様が生まれてから死ぬまで、一度もサタンの誘惑に負けたことがなく、徹底した 勝利者であられたのは、イエス様が人となられた神様であったからですが、にもかかわらず祈りにおいてサタンと戦われたのです。弱い私たちは尚更のこと、祈って主イエスの助けを必要とすることは言うまでもありません。死より甦り、今もサタンを支配し、裁き続けられる神であるイエス様は、多くの人を祈りを通して勝利に導かれます。

サタンの誘惑に見事敗北してしまったシモン・ペテロは、自分の苦い体験から、次のように語っています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔に向かい、信仰に固く立って抵抗しなさい」(ペテロ第一、5:8−9)。敗北したペテロがサタンの誘惑に勝利する力が与えられたのは、イエス様が死を打ち破って復活なさり、弟子たちに約束なさった聖霊を彼が受けた時からです。サタン、悪魔に抵抗し、勝利することが可能となったのは、イエス様がサタンに完全に勝利なさった事実に基づいています。

ペテロや弟子たちが受けた聖霊とは、イエス御自身の霊でありました。イエス様は人を救うために人となられた神でありますから、祈り求めるものに勝利の力を与えて下さいまさす。幾度か誘惑に敗北する体験をしても、そのつど悔い改めて祈り続ける時、神様は聖霊の力を強めて、私たちを誘惑に勝利できるようにして下さいます。イエス様はおっしゃいました。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)。私たちは勝利の主に祈り続けましょう。

@ ヒルティ著作集I,『幸福論』II(白水社,1978年),121頁。













 

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