逆風の中での祈り〜ヨブの苦悩〜     



Message 16             斎藤剛毅

謹啓
 6月の梅雨の時期になりました。その後お元気にお過ごしでしょうか?
私は毎月の1日と15日に「今月のあなたへのメッセージ」を筑紫野南キリスト教会のホームページに載せています。昨年の10月から始めていますが、主題は
人生の途上に生じる数々の不条理と思われる患難や苦難、その悩みの中で患難や苦難に負けずに、精神的に克服して、忍耐して生き抜いた人々の例を取り上げてきました。心の勝利はどこから、どのようにして生まれてくるのかということを、考えました。
6月のテーマも旧約聖書に登場するヨブの苦悩と、宗教改革者、マルティン・ルターの悩みと救いについて取り扱います。ヨブの苦悩は突然襲い掛かってきた災害と子供たちの死亡、それに加えて全身重い皮膚病に侵された心身の苦痛でした。ルターの悩みは、修道院に暮らしながら心に生じる数々の肉欲その他の罪意識との葛藤と、そこから容易に脱出できない苦悩です。
東日本における大地震と大津波による恐るべき災害と、被災者の苦悩が生じました。それゆえに、人間における苦難の意義を一緒に考えたかったのです。
今月のメッセージが少しでもあなたの心の重荷を軽くし、私たちを決して見捨てることが無い恵み深い神の愛が背後に存在することを知っていただければ嬉しく思います。



神の祝福を求めて祈り続けても、未来に明るい光が見えてこない時、私の心は自然と旧約聖書のヨブ記に向かいます。ヨブは正しく神を恐れる人で悪からは遠ざかり、男の子7人、女の子3人の子宝に恵まれ、家畜財産においては東方一とみなされる程、神の祝福を受けた人でした。しかし、ヨブに恐ろしい試錬が臨みます。神の許しを受けてサタンが数々の災いをヨブに与えたからです。

暴風の災害で家が崩壊し、10人の子供たちが全員死にました。盗賊たちが家畜を奪い、落雷或いは竜巻と思われる災害で残りの家畜は死に追いやられます。その悲しみが癒されない間にヨブ自身が重い皮膚病を患い、全身がいやな腫物で覆われて悩まされ、陶器の破片で自分の身を掻き、灰の中に坐り、傷口の痛みにじっと耐えるという見るも哀れな姿になってしまいました。

このヨブの悲しみと苦しみに比較しますならば、私が今味わっています悩みなどは悩みに価しないほど小さなものに思えてきます。この苦しみの中でヨブはうめきながら精一杯神に祈ったことが分ります。しかしヨブは答えて下さらない沈黙する神に直面するだけで途方にくれます。ヨブ記23章8〜9節に「見よ、わたしが進んでも神を見ない、退いても神を認めることができない。左の方に尋ねても会うことはできない。右の方に向かっても見ることができない」と語っています。30章20〜21節には「わたしがあなたに向かって呼ばわっても、あなたは答えられない、わたしが立っていても、あなたは顧みられない」とあります。隠れて姿を見せて下さらない神、沈黙する神はヨブ記に展開される一つのテーマです。

イギリスのローマン派詩人コールリッジ(1772〜1834)は次のような詩を書いています。
      われ天を仰ぎて祈りを試みたれど
祈りの言葉はかつての如くほとばしり出ることなく
たゞ悪しき囁きのみ現われて  わが心 塵のごとく乾きぬ。
  
人の精神生活は、いつも高揚された状態を維持できる基盤の上に築かれていません。山あり谷あり、魔坂の落し穴に陥ることもあります。

   イギリスの宗教改革者ヒュー・ラティマー(1485〜1555)はメアリー女王時代に火あぶり刑で殉教した人物ですが、友人への手紙の中で「わたしのために祈って欲しいのです。なぜなら、わたしはある時はとても恐ろしくて、ネズミの穴に逃げ込みたいと思うほどなのです。ある時は神は私を訪れて慰めて下さいますが、神は来り、また去ってゆかれるのです」。

どんなに秀でた信仰詩人、気高い宗教改革者でも、神が遠く離れて耳を傾けて下さらないように思われ、慰めが去る苦しみを長い信仰生活の中で暫々体験しているのです。

私たちが逆風を受け、思うように進めず、前途に暗雲が重くたちこめ、光が見えない時、どうすれば良いのでしょうか。パウロは語ります。
「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」(ロマ人への手紙12章12節)と。ここでパウロは何を言おうとしているのでしょうか。

 第一に、決して失望してはいけないということです。希望を抱き続けて、過去
にいただいた多くの恵みを数えて喜びなさい、とパウロは説きます。心から希望が去ると心の中から光が消えて、失望という闇が広がります。黒雲と一緒に台風が訪れても必ず過ぎ去ってゆきます。つらい試錬と苦しみは永遠に続くものではなく、神からの試練は一時的なもので、私たちの信仰を純化し、強めるためのものなのです。ですから、イザヤは48章10節で「見よ、わたしはあなたを練った。苦しみの炉をもってあなたを試みた」と語ります。信仰が純金のように純度の高いものとするために、私たちには神から愛の鞭としての苦しみが与えられます。

第二に、苦しみに遭っても、耐え忍びなさい、忍耐しなさいとパウロは語ります。私が小学生の時、私が悪いことをした時、母は座って両膝の上に私を腹這いにさせて、強くお尻を叩きました。おなかに母の愛のぬくみが感じられて、叩かれる痛さに耐えることができました。ペテロは第一の手紙5章10節で次のように語っています。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」

苦しみの後のこの恵みの約束が与えられていますので、私たちは患難に耐えることができるのです。私たちがもっとも恐れる死が私たちを捕えたとしても、私たちを愛される父なる神はイエス・キリストを死人の中から甦らされたように、私たちにも死から復活へ、神の国における永遠の生命へと導いて下さいますので、私たちは死の恐怖に耐え、打ち勝つことができるのです。

第三に、パウロは「常に祈りなさい」と語ります。テモテに宛てた第二の手紙の中で、パウロは「時が良くても、悪くても」(4章2節)という言葉を用いて、常に福音宣教に努め、励みなさいと述べています。イエス様はエルサレムでの受難と苦しみを前にして、ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈り抜き、十字架上で死ぬことが父なる神の御心であることが示されました。「常に」という言葉は、人生における最もつらく悲しい時でも、恐ろしい病や災害に見舞われてもということも意味しています。ですから、イエス様は神が自分を見捨ててしまわれたのではないかという十字架上の苦しみの中で、尚も「わが神、わが神」と神を信頼して祈り求めたのです。

ヨブも自分の弱さを暴露しながら、恐ろしい皮膚病の中で、自分の生まれてきたことすら呪い始めるほど、神の前に苦悩をさらけ出して祈り続けました。そして、祈りの究極目標である神ご自身と出会い、神の語りかけを聞き、パウロが語る「第三の天にまで引き上げられた」(Uコリント12章2節)ような神秘的体験をし、そこでヨブの全ての疑問は解かれ、逆風は順風に変り、元の祝福の生活に立ち帰ることが許されました。

私たちも逆風を受けながら歩んでゆく時、ペテロ第一の手紙1章6〜9節の言葉を心に留めて、祈り続けてゆきましょう。「あなたがたは今しばらくの間は様々な試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうしてあなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変るであろう。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在見てはいないけれども、信じて言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである。」













 

inserted by FC2 system