神は心を痛められた      



Message 15             斎藤剛毅

 創世記六章
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。しかし、ノアは主の前に恵みを得た。(六章五―八節)

 創世記六章五−八節の洪水前に関する記事を読みますと、主なる神様は「心を痛めた」という重要な言葉に私たちは出会います。「主は…心を痛められた」。しかし、多くの人は、神様の心よりも、人間の心の方をみつめて、洪水で溺れ死んでいく人々の叫びの方を聴いて、神様を非難するのです。

 ドイツのエルンスト・バルラハという作家は、戯曲『罪の洪水』の中で、ハンセン氏病を患う一人の物乞いを登場させます。男は自分の病気の苦しみを訴え、洪水の悲惨さに触れ、その光景は見るに耐えられないと語り、「果たして神様は心をもっておられるのか!」と問うのです。
しかし、人間は神様の心を問う資格があるのでしょうか?

 ロシアの文豪、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場するイヴァンは、「罪なき子供たち、自分の意思で禁断の木の実を食べることのない子供たちが、何ゆえに罪ある大人たちに殺されねばならないのか?」と問い、それをお許しになる神様が分からないゆえに、自分は無神論者であると語るのです。

 乱れた性の交わりによって胎に宿ったゆえに、人口中絶という方法によって、闇へと葬り去られて、この世に生きる望みを奪われてしまう命が多く存在します。せっかく生まれてきても親の暴力や虐待によって心の傷を抱えたまま大人になり、結婚して親になると、生まれた子供に暴力を振るい、虐待を加えるという悲しい悪循環が世の中に見られます。

 この胎児たちの恐怖や子供たちの叫び、うめきを聴きながら、人の心の中で思い謀る悪をみて、心を痛めておられるのは、人間をお造りになった神様ではないでしょうか。人間は罪の責任を自分のものと考えないで、神の前に悔い改めることをしないで、神様を非難しようとするのです。しかし、聖書は人間の病気、苦悩、悲惨に対し、最も深いところで心を痛めておられるのは、人間の創造主である神様であると語っているのです。そして、人間の罪を御自分の身に引き受け、人間に代わって絶望して死んでゆかれたのは、神の御子、イエス・キリストであり、救い主がおられるのだから、決して失望の中に留まり続けてはいけないと語るのです。

 19世紀のロシアの作家、ドストエフスキーは人間の弱さ、悲しさ、愚かさ、そして罪深さ、そこから生まれる人間社会の悲哀、悲劇などを鋭くみつめ表現した人です。小説、『カラマーゾフの兄弟』の中で、無神論者イヴァンは神に対する否定的な言葉を語るのですが、長老ゾシマには
肯定的で、信仰的な言葉をドストエフスキーは次のように語らしめています。「何も恐れることはない。決して恐れることはない。くよくよすることもいらぬ。…心から悔い改めるならば、神様から赦していただけないような罪は決してこの世にはありはしない。…神様の愛で追いつけないような罪があるであろうか!そのようなことはあるはずがない。…神様は人間の考えに及びもつかぬような深い愛をもっていらっしゃる。たとえ人間に罪があろうとも、その罪のまま愛して下さるということを一心に信じるがよい。」

 このように憐れみ深い父なる神様がなぜ人間を地のおもてから拭い去ろうとされたのでしょうか?それは全ての人の心の思いに悪が存在するようになり、悪の行為を悔い改めて、神様の御心を行おうとする人がいなくなったことがその理由です。「主なる神は、人の罪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。」と創世記六章5節に書かれています。六章11―12節を読みますと、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。」と書かれています。

 ソドムとゴモラの町が滅ぼされた時、10人の正しい人すらいなかったゆえに滅びが臨んだことが記されています。イエス様の教えによれば、神様は大変忍耐強いお方で、7の70倍、いやそれ以上罪を繰り返し犯しても、心から悔い改め、赦しを乞うならば、その罪を赦して下さるのが父なる神様です。しかし、罪を悔い改めず、神様が喜ぶことを行う心が全く消えうせてしまう時、神様は人を造ったことを悔いて、心を痛められると聖書は語るのです。

 ご自身が善なる神様ですから、創造なさった人間がその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであることは、耐え難い苦しみであり、ご自身に矛盾することであり、悔い改めの心をもたない人間を地のおもてから拭い去り、神を畏れ愛し、隣人愛に生きる人間をもう一度この地上に増やすこと、それが洪水の理由だったのです。本来の人間創造目的を回復するための痛みを伴う決断なのです。「主なる神は、地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛められた」。神様は人間ゆえに、悩み、痛まれたのです。

 6節と7節に、人を造ったことを「悔いる」という言葉が二度出てきます。それは人間を不完全なものに造ってしまったことを悔いるのではなく、善悪を判断し、選び決断するという動物にはない最高の恵みである自由意志を人間に与え、最善の被造物として創造したにもかかわらず、人間はその自由を悪用して堕落への道へ走っていってしまったことに対する、神様の心の痛みを意味する言葉なのです。

 自分はロボットのように唯神様の命令のままに動く存在でありたいと思う人はおりません。やはり自分で判断し、選択する自由を持つことを誰もが願うのです。ギリシャ、ローマ時代に奴隷が存在し、時折り反乱を起こしました。それは奴隷が人間としての自由を求めたからです。人間は自由意志を持って、善に生きること、神を畏れ愛し、隣人を愛して生きることを神様は求められておられるのです。しかし、人間は善を求めないで悪に走り、神様に反抗し、隣人を愛さない者になってしまったのです。それが神様の心の痛みなのです。

 腐った肉は毒を含み、悪臭を放ち、伝染性のばい菌を宿します。ノアの時代の人々は、神様の目から見れば、腐った肉のように堕落してしまったのです。それゆえに神様は、創造した人間を地のおもてから拭い去ろうと決心されたのです。水は洗い清めることを象徴します。洪水は人間によって汚されてしまった大地を清めることを意味します。それは創造主なる神様のご自由においてなされることであり、人間はそれに対して黙って神の怒りのもとに滅びる以外ないのです。

 神による人間への大手術の後に、人間の未来に希望が与えられます。未来の希望とは何でしょう?それはノアとその家族の選びであり、その子孫の繁栄なのです。彼らは滅びから救い出されるために、巨大な箱舟つくりを命じられます。ノアは正しい人ではありましたが、罪を犯したことが無いという人ではありませんでした。神様の前に恵みを得た人だったのです。六章8節には、「ノアは主の前に恵みを得た」とあります。ノアは神様に命じられたとおりに、人々の嘲笑を受けながら、黙々と箱舟つくりに精を出します。そして、箱舟がノアと彼の家族、そして動植物を救ったのです。

 この洪水物語は歴史的事実でありましょうか?メソポタニア地域には洪水伝説があり、地質学的地層の分析から、古代に大洪水があったことを証明しようとする学者がいます。第一次世界大戦中に、パイロットがアララテ山中にノアの箱舟の残骸を目撃したと報じられたことがありました。旧約聖書におけるノアの箱舟と洪水の記事は、それが歴史的事実であれ、神話的物語であれ、現代人に対して重要な警告を発しているのです。

 二〇世紀後半から二一世紀になって、ノアの時代と同じ様相を世界が示しているからです。神様はノアとの約束に基づき、人類を滅ぼすことはなさいませんが、人類自身が自らを滅ぼしてしまう危険性が高まっていることを、ノアの洪水物語を通して語っておられると思うのです。

国々のエゴイズムがぶつかり合い、CO2の増加による温室効果が異常気象となって現れ、生態系が変化しつつあり、悪性ヴィールスが強くなり、世界の人々を死へと誘っていきます。世界中の人の心から愛が冷えてきています。国家間対立と部族闘争、宗派の対立と自爆テロによる無差別殺人、麻薬の使用層の若年化、ポルノ産業の発達に比例して性犯罪の増加があります。

核爆弾の使用禁止を訴えながら、国々は軍縮どころか軍事力強化に努めています。核保有国が増えてきています。世界には人類を何十回も滅ぼしてしまう核爆弾が30万個保有されています。憎しみに燃えたテロリストが核爆弾を使用すれば、直ちに核戦争に突入して、世界人口の3分の1が滅亡する危険があるのです。ヨーロッパでは核戦争に備えてのシェルターと呼ばれる防空壕つくりが盛んです。1982年の秋にスイス、チューリッヒのバプテスト神学校を訪ねたとき、驚いたことに核戦争に備えてシェルターがあり、入り口には鉛の3重のドアで安全度を強化していたのです。イギリスでも、フランスでも地下鉄は核戦争に備えて深い所を走っています。でもシェルターは神様が命じられた箱舟ではありません。

現代の箱舟とは何でしょうか?それはキリストの救いの中にしっかりと留まって、礼拝を守り続ける教会です。それが神様から私たちに命令されている箱舟つくりなのです。私たちは少しでも多くの人々が箱舟の中に入り、救われるように働きかけねばなりません。箱舟の中にと留まる人々の心には,全てを神様に委ねる平安があります。しかし、ノアの時と同じように、多くの人々は教会の教えには無関心で、キリストの復活は馬鹿げた話と嘲笑します。

ノアの時、激しい大雨が降り、洪水の中で、人々が激流に流され、水中に沈んでいったように、現代には洪水と滅びの前兆が現れています。世界の人々は、日毎に増す情報の洪水に溺れそうになっています。新聞、雑誌、テレビ、インターネットによる情報は濁流となって生活の中に流れて来ています。小学生から大人に至るまで携帯電話を通しての通信、音楽、ゲーム無しには生きられなくなっています。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く人は多いのです。

教会は激流の中の不動の岩であって、汚れた流れの中に真理の清い水を、永遠の命に至る水を絶えず流し続けています。命に至る門は狭く、その道は細く、それを見出す者は少ないのです。キリストを信じ、キリストの愛の中に留まる人々は幸いです。しかし、キリストを拒む人々は不幸です。彼らは自分で自分を滅ぼしてしまうからです。ヨハネは語りました。「信じない者は、すでに裁かれている。神のひとり子の名を信じようとしないからである。」(福音書3章18節)

裁きと滅びは人間の創造者である神様の御心ですから致し方ありません。光よりも闇を愛し、悪を喜び、頑固で強情に悔い改めを拒んで自ら滅びを刈り取ることは本人の責任なのです。しかし、滅びに至る人々は自分の責任を回避して、滅びの責任は神にあると主張して譲らないのです。
 私たちは神の箱舟の中に留まり続け、福音を語り続け、神様の御心を行って、いつ終末的悲劇が地上に訪れても、主の救いを信じ、希望と愛にいきましょう。













 

inserted by FC2 system