神なしに人間は幸せに生きられないのか?     



Message 14             斎藤剛毅

「伝道者は言う、空の空、空の空、一切は空である」で始まる旧約聖書の『伝道の書』はユダヤ人の伝説によればソロモン王によって書かれたことになっています。しかし、書かれているヘブル語は、ソロモン時代(紀元前965−26年)よりも新しい時代のものであり、アラム語、ペルシャ語の混用、ギリシャ思想の影響、東洋的厭世主義などが見られることにより、紀元前3世紀の半ば頃に一人の知恵者によって書かれたと学者は判断するのです。

この著者はあたかもソロモン王の言葉であるかのような印象を与えて、読む人々の心に響く効果を考えていることは確かです。ヘブライ語原点では書名は無く「コヘレトの言葉」の一句で書き初められていますので、新共同訳ではこれを書名としています。ヘブライ語「コヘレト」はギリシャ語訳聖書では「エクレシアステース」となっており、その意味は「集会で語る者」ですから、説教者、伝道者という解釈を生み、口語訳聖書では「伝道者」を採用したのです。今日の説教では口語訳に従って語ってゆきます。

 伝道者は大事業を成し遂げ、大邸宅に住み、金銀宝石を集めて酒と女の快楽に身を投じて、その中に人生の生き甲斐を求めました。しかし、彼の心は満たされず逆に空しい思いに捕らわれて心は沈んでしまいます。彼は「金銭を好む者は金銭を持って満足しない」(5章10節)という真理を学びました。彼は莫大な財産を苦労の末に手中にする成功者になっても、死後自分より能力の無い者が労せずして遺産を受け継ぐことの悪を思い、人の世の愚かな仕組みを悲しむのです。更に耐えられないことは、知者も愚者も、能力のある者も無い者も、みな動物と同じように死んで塵に帰するということでした。彼は「空なるかな、空なるかな」と叫ばざるを得なかったのです。

 伝道者は目を自分から人間社会に移し、その実体を観察しました。そして、そこにも暗い影を見たのです。「人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある」(5章17節)と書かざるをえないほど、人生は患難、苦難と苦悩に包まれていることを知りました。彼は虐げる者の権力と虐げられる者の涙を知り、両者共に心の慰めから遠いことを憂いたのです。そして、社会悪と不正の下で、悲哀の心で生きるよりは生まれてこないほうがよいとさえ彼は考えるのです(4章1−3節)。また人々が虚栄や競争心から行う事業を見たのですが、功を成し遂げても最後は裸で死に、「その労苦によって得た何物をもその手に携えてゆくことができない」(5章17節)空しさを思うのでありました。

 伝道者は「死」に対しても、何ら積極的な意味を見出すことが出来ませんでした。心から死にたいと思って死んで、ああ死んでよかったと思うのであれば、死も良いものとして受け入れられるのでありましょう。しかし、彼は地上で築き上げた全てを後に残し、裸で死んで、動物と同じように土に埋められて塵に帰る、そのような死を愛せるはずがないのです。死は彼にとって悪でありました。しかし、死は必ず訪れるのです。これもまた空でありました。

 彼は人生の出発である誕生にも積極的な意味を見出せませんでした。誕生は患難と苦悩への第一歩を踏み出すことだからです。心から生まれたいと思って生まれ、ああ生まれてよかったと思うのであれば、出生は良いものであり、生まれる意味はありましょう。しかし、芥川龍之介の作品、『河童』に出てくる話ですが、「お前はこの世界に生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と尋ねられて、生まれたいと返事をして河童の赤ん坊は生まれてくるのですが、人間世界では「生まれたい」と答えて生まれてくる赤ん坊は一人もいないのです。誰でも気がついた時には生まれていたのです。それゆえに自分に誕生の意味を自分に求めても自分からは答えは出てこないのです。誕生は自分の意思を越えて、生命を与えられる、あるいは授けられることだからです。

 生まれたからには死にたくない、死は避けて生きたいと思って人は苦労します。だから、伝道者は「人の苦労は口のためである」(六章7節)と語ります。「しかし、その食欲は満たされることはない」という言葉を付け加えることを忘れませんでした。人は死ぬまで食べ続けます。そこで伝道者は考えます。人間は生きてゆかねばならないのならば、どのように生きることが最も有意義で、生き甲斐を感じるものなのであろうか?と。そして、彼は人として生まれたい上は、心が幸福感に満たされ、生きる喜びを感じる生き方だけが意味があると考えるのです。それでは心に幸福と喜びを与える生き方とは、どんな生き方なのでしょうか?

 伝道者は語ります。「神を畏れ、かしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを知っている。悪人には幸福がなく、その命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」(8章12−13節)。長く続く幸福は「神の手から出る」(2章24節)また「神の賜物である」(3章13節)と伝道者は人間観察の結果悟るのです。神を畏れ、かしこみ生きることによって幸福は賜物として与えられるので、幸福になるか否かは神を畏れ、かしこみ生きるかどうかにかかっているのです。では、幸福とはどのような生活なのでしょうか?伝道者は語ります。それは第一に、「神から賜わった短い一生の間、食べ、飲み、かつ太陽の下で労する全ての労苦によって楽しみを得ること」(5章18節)、第二に「楽しく愉快に過ごすこと」(3章12節)、第三に「愛する妻と共に楽しく暮らすこと」「(9章九節)であると。

ここに「楽しく」という言葉が3回用いられています。これが伝道者の人生観の大切な点の一つです。自分の一生は自分の意思を超えて神から賜わったものであるから、命を授けて下さった神を畏れ、感謝して生き、仕事に精を出して働いた報酬で妻や家族と楽しく、愉快に過ごすこと、それが幸福で、生き甲斐のある人生だと伝道者は語ります。

何故、彼は神を抜きにして幸福、生き甲斐、有意義な人生を考えられないのでしょうか。それは人の心は世界の有限なものによっては満足せず、ただ永遠の実体、すなわち永遠なる神の愛を受けてのみ満足するように造られているからです。伝道者は「神は人の心に永遠を思う心を授けられた」(3章11節)と語ります。人間の主体は霊的存在であって、霊は物質ではありません。物質は永遠を考えることは出来ません。人の霊は知性、感情、意思を備えており、神に似せて造られた霊的人格です。だから人間は永遠を考え、求めるのです。

 現代の科学では神の存在を証明することは出来ません。しかし、古代から現代に至るまで宗教は存在し続けて、人は目には見えない偉大な存在、「サムシング・グレート」を神と呼んで信じてきたのです。世界に多くの神々が存在する中で、旧新約聖書の神は天地宇宙の創造者、人間の創造者としてご自身をお示しになり、神は旧約時代にはモーゼや預言者たちを通して、新約時代にはイエス・キリストを通してご自身を啓示されました。

 旧約聖書の「伝道の書」は、人間世界の実相を深く洞察しており、英知に富んだ人が書いたものと思われます。そこに示されている人間哲学は現在に生きる私たちにも説得力のある内容です。人間の創造者である神以外に、本当の幸せに至る道を示すことが出来ないということは、神以外の数々の道に真実の幸福をもとめて失敗し、ようやく悟るのでありましょう。伝道者は結論として次のように語ります。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年老いて『わたしには何の楽しみがない』と言うようにならない前に、そのようにせよ」(12章1節)。「神をおそれ、その命令に守れ。これはすべての人の本分である」(12章13節)。人の本分とは人間本来のあるべき状態、本当のあり方という意味で、全ての人に該当する真理なのです。













 

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