光なる神〜心の闇は光に照らされる〜     



Message 12             斎藤剛毅

今日は心の闇を光に変えて下さる神について、お話したいと思います。

 一.光なる神
聖書は、神が光なる神であることを次のように述べています。
「神はただひとり不死を保ち、近づき難い光の中に住み、人間の中で誰も見た者はなく、また見ることもできないかたである。」(テモテ第一の手紙6章16節)。「神は光であって、神には少しの暗いところがない。」(ヨハネ第一の手紙1章15節)。

土の中の暗闇に生きているもぐらが、地上に出て太陽を見ますと強烈な光によって死んでしまうことがありますように、数々の罪を犯して生きている人間は神を見ますと、神の強烈な聖なる光には耐えられず、死んでしまうと聖書は語っています。ですから、神は姿を隠しておられるのです。

 太陽は光り輝きつつ熱を発しています。それと同じ様に、神から真理の光と共に愛の熱が絶えず溢れ出て、天地万物の生命を育て守っています。神の愛と真理の光なくして、人間を含む天地一切の生命は存続することはできません。神の光は真理そのものを意味します。「神には少しの暗いところがない」とは、神には偽りが全くないという意味です。それゆえに、神の愛は真実の愛、善そのものであって、虚偽や悪は全くないのです。
ヤコブは手紙の中で「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は上から光の父から下ってくる」(ヤコブの手紙1章17節)と語りました。神が与え給う賜物は、全く良い物、完全なもの以外ありえないからです。

二.光なるキリスト
神が人間に与えられた最善のもの、それは神御自身でありました。光なる神は人間救済のために、自ら人となられました。この人となられた神をイエス・キリストと呼びます。福音書記者ヨハネは「すべての人を照らすまことの光りがあって世に来た」(一章九節)と述べ、主イエス御自身は「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(8章12節)と述べられました。

十字架上に亡くなり、葬られ、三日目に死より甦られたキリストは、クリスチャン迫害に息をはずませてダマスコに向かうサウロに、光なる神として御自身を現わされました。サウロはその時の体験を次のように語っています。「わたしは光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者に手を引かれながらダマスコに行った」(使徒行伝22章11節)。

三.キリスト到来の目的
光なる神は何のために人間となられ、この世に姿をお現しになったのでしょうか。それは全ての人を神の光の中に招き入れて、「光の子」とするためでありました。主イエスの弟子ペテロが、「神は暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった」(ペテロ第一の手紙2章9節)と証し、弟子ヨハネも「神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩むならば、わたしたちは互いに交わりを持ち、そして御子イエスの血が全ての罪から、わたしたちをきよめるのである。」(ヨハネ第一の手紙一章七節)と述べ、更に使徒パウロも「あなたがたは以前は闇であったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実の実を結ばせるものである。」(エペソ人への手紙5章八8節)と書いています。

四.闇の中に生きる人間
使徒パウロがギリシャ・ローマ世界への宣教者として選ばれた時、次のようなキリストの召命の言葉を聴きました。「わたしはこの国民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らに遣わすが、それは彼らの目を開き、彼らを闇から光へ、悪魔の支配から神のもとへ帰らせ、また彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」(使徒行伝26章17−18節)。この言葉がはっきり示していますように、キリストの目に映る人間は、霊的には暗闇の中にいるのです。

闇とは何でありましょうか。現象の世界では闇とは光の無い状態です。太陽が地平線下に没しますと暗闇が訪れます。心の闇、霊魂の暗黒とはどのような状態を言うのでありましょうか。それは光なる神が人の拒みゆえに存在の力を弱めてしまう状態です。自然は真空を嫌います。神が支配しない霊魂には、悪しき霊が働きかけて、自分の支配下に置こうとします。光なる神は愛に富み、罪を悔い改めて罪から離れようとする者を助け、罪を赦そうとなさる憐れみ深い方でありますから、神を愛し、隣人を愛する人の魂に御自身の愛の光を強められますが、その神の働きを受け入れない者には、悪霊たちの働きかけが強くなるのです。

悪霊たちは憎み続けて赦さない冷酷非情な存在ですから、悪霊たちの支配を受けてしまう者の魂から、「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意があふれ出る」とパウウロは語ります。また「ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念」とが渦巻き、「神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、ざん言する者、そしる者、親に逆らう者、悪事を企む者、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となる」と言うのです(ローマ人への手紙1章29−31節)。
使徒ヨハネは「兄弟を愛する者は光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩くのであって、自分は何処へ行くのか分からない」(ヨハネ第一の手紙1章10−11節)と語りました。

五.闇の生じる原因
闇はどのようにして生じるのでしょうか。第一に、闇は光から遠ざかることによって生じます。太陽から十万光年も彼方に行けば、太陽の光は小さな星のような輝きでしかなくなります。それと同じ様に、光なる神から遠ざかるにつれて、魂の闇は深く濃くなってゆくのです。第二に、闇は光がさえぎられることによって生じます。太陽の下に黒雲が広がる時、光はさえぎられて雲の下が暗くなるように、神の恵みの光をさえぎるものは、人の世に働く、目に見えない悪霊たちであり、人間に宿る罪の力です。罪とは自分の良心に反して自分をあざむき、悪に走らせ、神に背かせようとする肉体に宿る悪の根です。

 人は罪の力を自由にコントロールできず、逆に罪の力の奴隷となってしまいます。罪は癌のように魂の中に広がって、人を霊的な死に至らしめるのです。罪が心を支配する限り、神の光は心を明るく照らすことは出来ません。人の罪の根を取り除くことができる方はイエス・キリストです。キリストは父なる神から聖霊を受け、主を信じ受け入れる魂に聖霊を注ぎ、罪の穢れを清め、罪の毒牙を抜き取ってしまわれる方です。聖書は、キリストが「罪を取り除くために現れた」と語り、「御子イエスの血がすべての罪から私たちを清める」と述べているのです。(ヨハネ第一の手紙1章7節、3章5節)。

 第三に、闇は光を自分で遮ること、光を閉め出してしまうことによって生じるのです。太陽が輝く昼であっても、戸を締め切ってしまうならば、光は部屋の中に入らず、真っ暗になります。それと同じように、自分の意思で光なる神を知っていながら、神として崇めず、感謝をせず、神の恵みを拒み、神の光を遮断するならば、心は空虚な暗闇に覆われてしまいます。
 六.光の王国、神の国

 新約聖書の黙示録は、クリスチャンが死後復活して迎え入れられる神の国の素晴らしさを次の
ように語っています。「都は日や月がそれを照らす必要がない。神の栄光が神の都を明るくし、小羊(キリスト)が都のあかりだからである。諸国民は神の都の中を歩き、地の王たちは自分たちの栄光をそこに携えて来る」(黙示録21章23−24節)。また、「呪われるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には御名がしるされている。夜はもはやない。あかりも太陽の光もいらない。主なる神が彼らを照らし、そして、彼らは世々限りなく支配する」(22章3−5節)。

 神の国は光に満ちた愛の国です。心からの賛美と喜びがあり、人々は互いに寛容と善意、慈愛の心をもって接し、交わるのです。また柔和でつつしみ深く、約束に対して忠実です。神の国には、ねたみ、高ぶり、誇り、無作法、いらだち、恨み、不義は存在しません。なぜなら、人の心は神の光に満たされて、このような暗黒の思いは消滅してしまうからです。
 私たちは神の光が輝く天国をめざして生きているのです。死んだら人は無になり、骨を残して全てが終わるという虚無的な死の理解に対して、クリスチャンの死の理解は何と明るく、希望に溢れたものでしょう。クリスチャンにとって死とは神の国に入ってゆく扉でしかないのです。

 七.地上の天国
 私たちはキリストを通して、光なる神と神の国の素晴らしさの一部を味わい知る者となりました。地獄の暗闇の方を向いていた私たちの心は、キリストの力により神の国の方に向き変わりました。そればかりでなく、「光の子」とされ、神の国の国籍を持つことが許されたのです。使徒パウロは「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ人への手紙3章20節)と述べています。

 光なる神は私たちの心に、神の聖霊を注いで下さり、聖霊は天国へのパスポートとしての信仰を、「イエスは主なり」という告白を与えて下さったのです。教会は喩えて言えば、神の国に向かう船と同じであり、船中には老若男女、キリストを救い主と信じる信仰のパスポートを持った人々が、愛と信仰と希望によって交わり、互いに励まし合いつつ人生の荒海を越えてゆくのです。教会は地上の天国であり、神の国の「雛形」(ヘブル人への手紙8章5節)として存在するのです。

 八.堕落の危険
 私たちが信仰に入って後に堕落することがないように、使徒ペテロは次のように語っています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が吼えたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰に固く立って抵抗しなさい。」(ペテロ第一の手紙4章8−9節)と述べています。目に見えない悪の霊は、神の光を遮り、人の心を地獄の暗闇に導こうとして、絶えず働きかけ、誘惑しているのです。

 使徒パウロは「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足に履き、その上に信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことが出来るであろう。また救いの兜をかぶり、御霊の剣、すなわち神の言を取りなさい。絶えず祈りと願いをし、どんな時にも御霊によっていのり、そのために目を覚ましてうむことなく、全ての聖徒のために祈り続けなさい。」とエペソの教会に書き送りました。(エペソ人への手紙六章10−18節)堕落への誘惑は絶えることはないので、いつも目を覚まして祈ることが必要なのです。
 私たちの心が日々キリストの光を心一杯に受けられないのは、私たちが天界と地獄界の接点に生きているからです。私たちに昼と夜が訪れるように、私たちの魂には光と闇の力が両方働きかけるのです。日々永遠に神の光を喜び、楽しむことが出来るのは天国においてだけです。

 九.光への道
 信仰生活において、神の光を受けるためには、神から遠ざかることがないように、教会の礼拝や聖書を学ぶ会、祈祷会に出席することが必要です。神に愛される心とは、神にいつも感謝し、礼拝を捧げる心、とりなし祈る心、神の愛を受けて人を愛し、奉仕する心です。
 また神の光と愛を受けるためには、心の扉を閉ざさないように、神の光を遮断することがないように努めることが大切です。神の光に開く心とは、日々聖書を開いて、神の御心を聴く心です。御旨に添って生きようとする意思です。神の御旨を行う人は、その行いが神によって可能とされたのですから、行いの「誉れ」を自分に求めず、神に帰そうとするのです。ただ神の御名が崇められることを願うのです。

 闇の世界に生きる人々は、名声に執着し、自分の名を高めようとします。神の光の中に生きる人々は、名誉や地位は神を第一にして従った結果であって、自分を誇らず、神を誇ります。奢り高ぶる心は神の光から遠のきます。月が太陽の光を受けて輝くのと同じように、人は神の光を魂に受けると輝きます。神の光を受けて、月のように輝く信仰者になりたいものです。













 

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