魂の渇き、闇、不安から救われる道     



Message 11             斎藤剛毅

(これから二回のメッセージはキリストの十字架に示された父なる神の愛について、そのあと二回は、キリストの復活が私たちのとってどのような意味があるのかということについて語ります)

 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから―この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。」(ローマ人への手紙1章1―4節、口語訳)

はじめに 〜人間の本質は変わらない〜
 主イエス・キリストに関する福音が、2000年前に、ユダヤ人、ギリシャ人、ロ−マ人たちにとって、素晴らしい福音(good news)であったなら、21世紀に生きる私たちにとっても福音のはずです。なぜなら、私たち日本人も同じ人間だからです。人間は人種が違っても、肌の色が異なっても、話す言葉が違っても、性格が異なっていても、生まれた時代が違っていても、人間であるという事実には変わりはありません。人間として多くの共通点を持っているからです。

2000年前に較べて現代人の知識内容が増大し、科学も大きく発達しました。しかし、人間の根本的性質は変わってはいません。人間は全て愛されることを欲し、真実を求め、裏切られると怒り失望し、孤独や孤立に寂しさを覚え、重い病気に罹ると不安になる存在なのです。人生という一回限りの旅路を歩みながら、喜んだり、悲しんだり、悩んだり、苦しんだりしながら生きてゆく存在であると人間が定義されるゆえに、昔も今も人間の本質は変わらないのです。

1. 魂の渇き
 あなたは魂の渇きを感じたことがありませんか?どんな時に感じましたか?人間は人と人との関係の中でしか生きてゆけません。互いに愛し合い、理解し合い、信頼し合い、助け合う関係であれば、人は魂の渇きを感じないはずです。しかし、互いに愛し合えず、理解し合えず、信頼し合えず、助け合えない関係であれば、人は魂の渇きを感じるのです。なぜなら、愛、理解、信頼、助け合いは魂を潤すからです。その反対の状態にあると魂は渇くのです。渇き以上に悲しい魂の状態は脱水状態です。

のどの渇きが癒されないまま、水を飲まないでいると脱水状態から死の危険が迫ってきますように、魂の脱水状態は、憎しみ、理解の拒否、不信頼、見捨てるという悪を魂の中に生み出して、魂の死という危険が迫ってきます。その状態を魂が「死に至る病」を患うというのです。死に至る病に罹ると、激しい憎悪に基づく殺意、殺人にまで及ぶ恐ろしい魂の闇が支配するようになります。渇きから脱水状態、そして闇へと魂が移行すると、そこにはもはや希望の光が差し込まない地獄的暗闇になりますから、絶望のみが存在するようになります。
 
現代では、地獄の暗黒に生きている魂がイラク、パキスタンに大勢います。彼らは連日のように憎しみによるテロを起して、多くの死傷者を生み出しています。平和共存は無く、敵とみなす相手は唯殺すのみなのです。カトリックの作家、高橋たか子さんは「人間の心の奥深くに“マグマ溜り”があって、マグマが吹き上げて来る時、意志の力では抑えきれない魔力が姿を現す」と語っています。世界のあちこちでマグマが吹き出ています。日本でも自殺、殺人、飲酒運転事故、虐待によって人の命が奪われてゆくことが連日続いています。止めようとしても意志の力ではどうしようもない魔の力が強く働いています。世界に愛が冷えてゆき、悪魔たちが人間を苦しめ、人間の堕落を喜んでいます。
 
人間はどうしてこのような悲しい下降を辿らなければならないのでしょうか?人間は地獄の暗やみへと行き着くのが運命的定めなのでしょうか?昔から、世の多くの人々は、魂の渇きの中で、次第に心に闇が増し、平安と希望の光が消えてゆき、この世に存在する恐ろしい犯罪を見るにつけ、やりきれない悲しさが心に漂う中で、「人は岩が坂を転がり落ちるように、だんだんと悪へと傾き、堕落して、最後は罪悪の報いとして死が臨み、全てが終るのか」と考える時、「そんなはずがない。人間の本来あるべき状態へと復帰できる道はあるのではないか?」と尋ねてきたのです。
 
そのような疑問に対して、現代人に対してイエス・キリストは次のように語られました。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしの与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう。」                          (ヨハネ福音書4:14)
「だれでも渇く者は、わたしのところへ来て飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹(魂)から活ける水が川となって流れ出るであろう。これは、イエスを信じる者が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ福音書7:37−39)

 人間の魂の深刻な渇きを潤す水路が開かれたのです。その水路はイエス・キリストです。私たちはイエス・キリストを信じるとき、魂を潤す水が川となって流れ入るのを体験できるのです。

 ギラギラと太陽の光が照りつける砂漠の中で、喉が渇ききって水をあえぎ求める人のところに、水がたっぷり入った水筒を持った人が現われて、「さあ、水を飲みなさい」と言うのを聞いたならば、その言葉は嬉しくてたまらないgood newsのはずです。水筒の中は命の水と信じて受け、飲んだ人は渇きが癒されるのです。イエス様も私たちの魂に、命の水を与えて下さいます。その水は、イエス様しか与えることができない霊的な水です。

 私たち人間は互いに愛し、理解し、信頼し、助け合うことによって、魂は潤います。その潤いには喜びが伴うものです。しかし、イエス様が与えて下さる水は霊的な水ですから、もっと質の高いものなのです。神の国において、天の霊界において与えられている水は、神様から流れ出る霊的な水ですから、「信じて受ける性質のもの」なのです。私たちは人からの好意を飲むとは言いません。受けると言うのです。イエス様が与えてくださる水は「信じる者が受けることができる御霊、即ち神の霊」なのです。イエス様が与えて下さる水は「永遠の命に至る水」なのです。

私はイエス様を父なる神様がこの世に遣わされた神の御子と信じた時に、約束の聖霊、御霊を受けました。その時、私の魂は人間が与える愛の潤い以上の、大きな喜びと愛に満たされる体験をし、魂は充足したのです。聖霊が私の魂に注がれると私の中にイエス様の愛、喜び、平安、寛容が実を結ぶことを体験しました。私が今も受けているこの恵み、私にとっての福音を一人でも多くの人に伝えて、私と同じような魂の潤いを、知って欲しいと願い、私は教会で語り続けてきました。イエス様は人間が神によって創造された本来の状態を回復するためにこの世に来られたのです。イエス様による魂の渇きの根本的癒し、それが現代人への福音なのです。

 2.魂の闇
 あなたは自分の魂に暗い闇を感じたことはありませんか?聖書は死に至る病に冒された魂を「闇に支配された魂」と呼びます。闇とは失望を意味します。それがもっと深刻になると絶望となります。闇には希望の光が射さないのです。絶望は真っ暗やみの状態です。闇を生み出すのは人間全てに宿る悪へと傾いてゆく罪の力です。罪から諸々の悪が生まれてきました。使徒パウロは人間の心から生まれる悪のカタログをローマの信徒への手紙1章の中で述べています。人間は悪を重ねて悲しくも絶望へとたどり着く存在でしかないのでしょうか?この問題においてもイエス・キリストは現代人のとっても福音なのです。
 
聖書は「全ての人を照らすまことの光があって世にきた」(ヨハネ福音書1:9)と語ります。イエス様は次のように言われました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命に光をもつであろう。」(ヨハネ福音書8:12)

 炭鉱の爆発事故で暗い坑道の中に閉じ込められてしまい、救援隊の救出を待つ者にとって、救い出されて光の世界に帰るということは大きな喜びです。「お−い、君たちは無事か、もう直ぐ救い出すから、頑張るのだぞ!」という励ましの声はgood newsです。自分は助かるのだ!という喜びが胸の中に溢れることでしょう。イエス様の私たちに対する言葉は、自分の魂の闇をよく知っている者にとっては、同じようにgood newsなのです。失望の闇から希望の光の世界に連れ帰していただける約束の嬉しい呼びかけなのです。

使徒パウロはクリスチャンを憎む魂の闇を自覚しつつ、迫害に息をはずませ、ダマスコ途上で、復活された主イエスに出会ったのです。その時、次のような語りかけを聞きました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。…わたしがあなたに現われたのは、あなたをユダヤの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光りに、サタンの支配から神のみもとに立ち帰らせ、彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖別された人々に加わるためである」(使徒行伝26:15−18)。パウロの魂の闇を照らし出したイエス様の光によって彼の罪が顕わにされ、心の目が開かれ、悔い改めて、闇から光りに、サタンの支配から神のみもとに立ち帰ることが出来たのです。彼はイエス様から命の光をいただいたのです。この事実はパウロにとって素晴らしい出来事でした。ですから、パウロはイエス様が自分にとっての福音であり、全ての人への福音であると語るのです。私の魂の闇もイエス様と出会うことにより光に照らし出され、悔い改めて、私の魂はサタンの支配から神様の光の支配へと移されたのです。闇から光へと救いだされる
恵みは、あなたも信じるときに与えられます。

3.死の不安
私は2009年9月30日から10月13日まで、久留米病院に入院しました。病院は病気と死に打ち勝つための闘いがなされる場所です。手術して癒される人、発見が遅れて癌が進行してしまい手術しても直らない人、明暗が分かれます。たとい癒されても必ず死ぬ時が来ます。

旧約聖書は、死後の世界を陰府(よみ)と呼びました。そこは死んだ者の霊が下って行くところです。詩篇の記者は陰府を「忘れの国」(88:12)、「音の無き所」(94:17,115:17)と述べます。ヨブは全身を吹き出物に覆われ、苦しみを味わいながら、死後の陰府の世界を「滅びの穴」(26:6)、「暗黒の地」(10:21)と呼びました。イザヤ書に登場するヒゼキヤ王は「陰府はあなたに感謝することは出来ない。死はあなたを賛美することが出来ない。墓に下る者はあなたのまことを望むことが出来ない」と語っていますから、旧約聖書に述べられている死後の世界は、暗く、感謝も賛美の音楽も無い、神のまことを望む事の出来ない世界であると
考えられていたことは事実です。

新約聖書では、死んだ後に人の地上での行為を裁く神の審判がなされる時を待つ、眠りの世界が描かれます。死は人間の犯す罪と深く結びついていますから、死は罪への罰と考えられますので、罰である限り決して喜ばしいものではないことは確かで、また罰の不安を伴います。

イエス様の弟子たちは、十字架の上で「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれた主イエスの言葉が重く心に留まりました。自分たちの愛する先生を見捨てて逃げ去った事実と結びついて、誠にやりきれない、耐えられない気持ちを抱いていました。先生が逮捕された時に、一丸となって先生を守りきれず、命惜しさに夜陰に乗じて逃げ去ってしまった臆病で、卑怯で、勇気の無い自分たちであったという何時までも記憶の底に纏い付いて離れない罪深い記憶をもてあましながら生きていました。また自分たちも逮捕されて、裁判にかけられ、死刑を宣告されるのではないかという恐れを抱きながら、ユダヤ人たちの追及から身を隠していた時に、全く思いがけずイエス様が姿を現して、「シャローム!あなたがたに平安あれ!」おっしゃったのです。そして、十字架に釘付けされた手の傷痕と脇腹の槍傷痕をお見せになって、自分は死を打ち破って復活したことを示されたのです。その場に居合わせなかった弟子のトマスにも現われたイエス様は、トマスの疑いを責めずに、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と諭されたのです。裏切りの罪を赦し、心に平安と喜びを与え、信仰の大切さを教えられたイエス様によって、弟子たちは死と裁きの不安と恐怖から開放されました。復活の主イエス様と出会ったことは、弟子たちにとって大きな喜びであり、また復活の事実は罪の赦しに繋がる福音だったのです。

 使徒パウロはコリント教会の信徒宛に手紙を書き、第一の手紙の15章全体を割いてイエス・キリストの復活を語り、その事実が人類にとって如何に意義深いことであるかを述べています。
 ある目的地をめざして飛んでいた飛行機がハイジャックされて、犯人の要求に従って進路が変えられ、他の飛行場についても開放されず、疲労と死の恐怖の中に閉じ込められてしまった人々が、苦悩の後に解放が告げられることは安堵の喜び、good newsです。

 現代においても、死におびえ、恐怖を感じている人々が大勢います。そのような人々にとってイエス・キリストの復活はgood newsです。イエス・キリストの復活は歴史的事実です。死の恐怖と不安から救い出される方がイエス・キリストです。イエス様は言われました。「わたしは甦りであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。…あなたは信じるか?」(ヨハネ福音書11:25)

 おわりに〜救いの決断へと招かれるイエス・キリスト
 魂の渇きを癒し、魂の闇を光に変え、死の不安と恐怖から開放し、救い出してくださる方がイエス・キリストなのです。信じてキリスト・イエス様に委ねるとき、イエス様は必ず救い出して下さいます。昔と変わらず、今も私たちに伝えられている福音を聞いても、信仰への道を塞ぎ、妨害しようとする悪の力は、サタン・悪魔が存在する限り衰えることはありません。私たちは善と悪が一緒に働く所に生きています。善か悪かを選択する自由意志が神様から与えられています。ですから地上の生活は信仰に生きる決心をしても、たえず誘惑に晒され、私たちは試練を体験し、信仰の訓練を受けるのです。その背後には、神様の愛の働きがあります。神様は愛する者を鞭打ち、訓練を与えます。信仰を強めるために与えられる訓練は、神様に愛されている証拠です。

 私たちは自分の信仰の弱さを知っています。イエス様の弟子たちがそうでした。その弟子たちの信仰がなくならないように祈られるのはイエス様なのです。イエス様は弟子ペテロに言われました。「シモン・ペテロ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈った。」(ルカによる福音書22:31−32)。私たちも信仰が試され、ふるいにかけられるのです。そして、幾度も篩から落ちそうになる自分を発見します。時には落ちてしまい、信仰者として失格である自分を知らされます。そして、自己嫌悪に陥ります。しかし、イエス様はそんな私たちを見捨てることはなさいません。忍耐強く、私たちのために祈り続けて下さるのです。

 ペテロもふるいにかけられ、信仰の試験に落第してしまいました。それでも、イエス様の祈りによって支えられ、立ち直りました。信仰の弱いクリスチャンたちを力づける人となりました。彼は人一倍自分の弱さを知っていましたから、弱い人々を助けることが出来たのです。
イエス様を信じ、希望に生きるように、あなたも招かれています。













 

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