神の沈黙と人間の苦悩〜ロドリゴ神父の場合〜     



Message 10             斎藤剛毅

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。
この言葉はイエス様が十字架の上で叫ばれたものです。武士道精神の影響を強く受けた明治のクリスチャンたちは、この言葉に抵抗を覚えました。人類救済の大使命を果たすために来られた救世主が末期に及んで、女々しい叫びをあげるとは考えられなかったからです。従って、この言葉は詩篇二十二篇一節の言葉であり、イエス様が十字架上の苦痛に雄々しく耐えながら、神への信頼の歌である詩篇二十二篇を大きな声で朗詠された時、ひときわ一節の言葉だけが人々の耳に印象深く残ったのだと解釈することにより、当惑を覚える人々の問題を解決しようとしました。元東大総長の矢内原忠雄先生はそのように解釈なさった先生の一人です。

しかし、現代の多くの聖書学者たちは、全人類の罪をあがなうために十字架にかかられたイエス様が、神に完全に見捨てられてしまうという裁きを御自身に受けられた時の絶望的叫びであり、それは神に裁かれる人類を代表する叫びであったと解釈しています。今日は、十字架上の叫びと深いかかわりのある詩篇二十二篇一節の後半と二節の言葉を中心に神の沈黙と人間の苦悩について考えたいと思います。
「何ゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。わが神よ、わたしが昼呼ばわっても、あなたは答えられず、夜呼ばわっても平安を得ません。」

ここに、見事に「神の沈黙」が語られています。「嘆きの言葉が聞かれない。昼、神に呼ばわっても神は答えられず、夜叫んでも神の沈黙だけが答で、それゆえに、自分の心には平安がない。」私たちが信仰生活を続けてゆきます時に、時たまそのような体験をすることがあります。ある信仰の大先輩が「神の沈黙こそ、神の答なのだ」と言われたことがありますが、このような心境に至るにはかなりの長い年月がかかるように思われます。

カトリックのクリスチャン作家、遠藤周作さんは、『沈黙』という小説を書きました。この小説は今日の説教のテ−マと関わりのある内容ですので、紹介致しましょう。その後で、主題を一緒に考えてゆきたいと思います。

ロ−マのカトリック教会に一つの報告がもたらされました。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣したフェレイラ神父が、長崎で穴釣りの拷問を受け、信仰を捨てる誓いを立てたというのです。この神父は日本に33年間おり、また管区長として最高の重要な職務にあり、司祭と信徒たちを統率してきた長老でありました。稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害の下で地下に潜り、宣教を続けてきた神父の手紙には不屈の信仰が溢れておりました。それがどのような理由にせよ、教会を裏切ることなどイエズス会では考えられないことでした。1637年、フェレイラ神父に教えを受けた三人の司祭たちがこの真相を確かめるために、日本に潜伏を企てるのです。1643年、やっと長崎の五島にたどり着いた三人の司祭の一人の名をロドリゴと言います。この人の名は小説上の名前ですが、実際の名はジュゼッペ・キャラというシシリヤ生まれの司祭でして、フェレイラ神父を求めて来日。潜伏布教を試みましたが、捕らえられ、穴釣りの刑を受けて、信仰を捨てた実在の人なのです。

ロドリゴ司祭は捕らえられ、長崎に連れられてゆく途中、司祭のガルペ司祭と三人の日本人信者が迫害に遭う場面に出くわします。体中ぐるぐる巻きにされた三人の信者が、船に乗せられて沖に向かいます。その時ロドリゴ司祭は心で神に語りかけます。「あなたはなぜ黙っているのです。この時でも黙っておられるのですか?」ガルペ司祭が信仰を捨てるとさえ言えば、三人の命は助かると迫られても、ガルペ司祭はうなずかず、三人の信者は次々と海に投げ入れられて死んでゆきました。それを見たガルペ司祭も海の中に 駆け入り、殉教の死を遂げてしまいます。その後に何もなかったような静かな海。そこにロドリゴ司祭は恐ろしい神の沈黙を見るのです。

長崎に着いたロドリゴ司祭は暗い土牢に入れられ、その中で三人の信者が穴釣りの拷問を受けてうめき苦しんでいる声を聞きます。そこに捜していたフェレイラ神父が姿を現して、ロドリゴ司祭に語るのです。「私がここで過ごした夜には、五人が穴釣りされておった。五つの声が穴の中でもつれ合って耳に届いて来る。役人たちはこう言った。『おまえが転べば(信仰を捨てさえすれば)あの者たちはすぐに穴から引き上げられる。』私は答えた。『あの人たちはなぜ転ばぬのか。』役人たちは笑って教えてくれた。『彼らはもう幾度も転ぶと言った。だがあなたが転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけにはゆかぬ』と」。「私は祈り続けた。しかし、祈りはあの男たちの苦痛を和らげはしない。あの男たちの耳の後ろには小さな穴が開けられている。その穴と鼻と口から血が少しずつ流れてゆく。

その苦しみを私は自分の体で味わったから知っている。祈りはその苦しみを和らげはしない。」更にフェレイラ神父は次のように語ります。「ロドリゴ司祭、あなたが転ぶと言えば、あの三人の者たちも穴から引き上げられる。苦しみから救われる。それなのにあなたは転ぼうとしない。あなたは彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ。この私のように教会の汚点となるのが恐ろしいからだ。」そして、フェレイラ神父は力強く言います。「もしキリストがここにおられたなら、キリストは彼らのために転んだろう。」ロドリゴ司祭は叫びます。「そんなことはない!」フェレイラ神父は語ります。「いや、キリストは転んだろう。愛のために。自分の全てを犠牲にしても。」

やがてロドリゴ司祭は踏み絵のもとに立たされます。遠藤周作さんは次のように書いています。「司祭は足をあげた。足に鈍く重い痛みを感じた。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も清らかと信じたもの、最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む。この足の痛み。その時、『踏むがいい』と銅版のあの人は司祭に向かって言った。『踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。 私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため、十字架を背負ったのだ。』こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、鶏が遠くで鳴いた。」

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため、十字架を背負ったのだ」というイエス様の声を聞いたのは、他ならぬ遠藤周作さん自身です。後書きで、遠藤周作さんは「ロドリゴの信仰の告白は、プロテスタントに近いと思われるが、しかしこれは今の私の立場である」と書いています。神の沈黙の前で、神に問いかけ、遠藤さんはロドリゴ司祭という一人の小説上のモデルを通して、神の答えを書こうとしたのです。ロドリゴ司祭が心に描いてきたキリストの顔は、力強く威厳のあるものでした。それは西洋の芸術家たちが好んで描いたキリストの顔です。そのような顔を持つキリストに励まされ、日本で布教を開始したのですが、様々な困難と苦しみを体験してゆくうちに、キリストの顔は次第に変化してゆくのです。そして司祭は遂に捕らわれ、踏み絵の前に立たされることになります。

ロドリゴ司祭がそこで見たものは、人間と同じように苦しんでおられるキリストの顔だったのです。しかも、キリストは「お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。私を踏むがいい!」と語られるのです。宗教画家ルオ−もキリストを描いていますが、彼の描くキリストの顔には、人間の悲しみを全部負ったような深い悲しみの陰が表現されています。ルオ−は人と共に苦しむキリストを心に感じ取っていたのでしょう。

エリッヒ・フロムという心理学者は世界には二つの宗教が存在すると語ります。一つは父の宗教であり、その宗教における神は、人間にとって恐ろしい神、人間の悪、罪に対して怒り、罰する神なのです。もう一つは母の宗教です。それは、出来の悪い子供を愛し慈しむ母のように、人の悪、罪を赦し、人と一緒に苦しむ神を持つ宗教、赦しの宗教なのです。遠藤周作さんは「異邦人の苦悩」というエセ−の中で、「私は『沈黙』を書くことによって、自分とキリストの距離感を縮めた様な気がした。つまりそれは父の宗教から母の宗教への転換ということであり、主人公が心の中で持っていた父の宗教が母の宗教のキリストに変わっていくというテ−マである。…この小説を一番批判したのは、他ならぬカトリックの人たちであった」と書いています。

キリストのイメ−ジが変わることにより、神が近くなったのです。遠く離れて近づくことのできない神が、近づいてきて下さって、共に苦しんですださる神、一緒に痛みを分かち合って下さる神となったことは、遠藤周作さんにとっては事実であり、そこに福音を見い出したのです。

註 私が手にして読んだ本は、遠藤周作著『神の沈黙』、新潮文庫です。













 

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